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私の祈り

一日一日前進前進。
うまくいかなきゃあ頭で作戦を練る。
試行錯誤の連続。
なのに日々前進していく。
なんでだろ
なんで続いているのか摩訶不思議。

おてんと様が見ているからかしら?
生きているのが不思議なくらい。

歳を重ねるごとにおてんと様に感謝する。
今があるのがありがたい。
続けば続くほど感極まって今に感無量なのである。
そんな思いをみんなと共有したい。
それが私の祈りである。




物事の本質への追求

多分それはどこにでもあるものかもしれない。
学校とか家庭とか社会とかで生活している
自分自身に普通にあるのかもしれない。
たけど深く私たちは気づいていない。
たとえ勉強に時間を費やしても他人はもしかしたら
違う事に時間を費やしているかもしれない。
たくさんの人が同じように時間を費やしても
時間の中身は人それぞれである。
普通にある物事の本質さえ気づいていないのだから
何をしてもたいして差はないかもしれない。
また、がむしゃらに勉強しても普通にある物事の本質に
目をかくしているだけかもしれない。
だから普通にある物事の本質を
否定してしか勉強できないのかもしれない。
普通にあるものの問いかけを忘れては
何をやっても意味は無い。
だからこそエリートや坂本竜馬は脱藩が必要なのだろう。
普通の人にとっては
普通にあるものの知らない部分に気づいている。
だからあくせくしないのかもしれない。
けれどそれでいいわけでなく
物事の本質への追求は我々の永遠のテーマである。



どこにでも
ある物事の
本質は
深いところで
気づいていない     行有

どこにでも
ある物事の
本質は
どこにいようが
問うべきである     行有




自分の世界だけでも私なりに善処する

あまり他人に干渉せず他人にふりまわされず
自分の世界だけでも私なりに善処する姿勢を示す
それを子供ながらに大人から学んだ気がする
とにかく他人の事より自分なりに自分の事を善処すれば
何も言われないそういう世間で育った
今もそういうスタンスでいる
だから仕事に対しても
あんまり他人について考える事は消極的である
他人が私に干渉すれば私も干渉せざるおえない
私も他人も言いたい放題になる
けれど自分がする事をやっていればそんな事はまれである
だから自分自身なるべく何も言われないよう努めている


干渉されず
生きていくのに
善処する
やる事やれば
それでいいのだ     行有

出来るだけ
他人の事を
考えず
生きていきたい
生活目指す       行有




立っている

不思議だ
私は足で立っている
何があろうが立っている気がする
私にその力が不思議でならない
不思議なのにその力はやがて私を支え始める
その力が生きろととなえ始めるのだ
その力が何なのかいまだにわからない
今もみえないその力が私を支え続ける


立っている
足の力が
不思議なり
心の中で
響き始める      wakkii

立っている
足の力が
無意識で
心の中を
支え続ける      wakkii




学園時代

学校ではやりたくない事もやらされた
親に助けてもらったり友達を頼った
だけど過ぎてみれば
出来ない事を出来るようにする機会が大人にはある
あんな事で苦労した事が
自分に足らない事だと認識するからかもしれない
だから学校では適当にいろいろやるだけでいい気がする
心に残る宿題さえあればそれが教育の成果かもしれない
自力で反復する学習こそが
人間のたくましさと成長をあらわすそんな気がしている


過ぎてみて
自分の壁を
乗り越える
生命力の
なせるわざかな    wakkii

なんとなく
乗り越えるべき
壁がある
それをつかめば
なんとかなるさ    wakkii





花として
成し遂げた後
桜散る
役目を終えた
心のように     wakkii 作

この年も
一仕事して
桜散る
役目を終えた
心のように     wakkii 作

新年の
展望開く
冬休み
作戦ねって
楽しみたいな    wakkii 作

新年は
どんな未来が
あるのやら
我が構想が
問われそうなり   wakkii 作

我が気持ち
はればれさせる
初日の出
未来へたくす
希望の光      wakkii 作

書初で
心新たに
志す
気合の入る
未来への道     wakkii 作

我が家でも
正月の朝
雑煮なり
いつもと違う
気持ちにさせる   wakkii 作

たんたんと
しるし続ける
初日記
おめでたい事
書けたので良し   wakkii 作

年明けに
やっておきたい
初詣
気持ちいれかえ
できたらいいな   wakkii 作

読初で
集中できた
気分なり
機会を得られ
ありがたきかな   wakkii 作

年明けに
気分一新
初詣
明るい年に
なったらいいな   wakkii 作

なんでだろ
あっという間の
三が日
おめでたいから
名残惜しいな    wakkii 作

なんとなく
新年明けて
心持ち
仕事始で
気合が入る     wakkii 作

元気よく
気合を入れて
朝起きる
仕事始の
ありがたさかな   wakkii 作

なんどきも
やるべき事を
やるだけよ
あとは野となり
山となるかな    wakkii 作

心から
何に徹して
やるべきか
常に問われる
我が人生よ     wakkii 作

わからない
何が良いのか
悪いのか
ただひたすらに
やる事をやる    wakkii 作

愛のある
大事にしたい
温かさ
勇気づけられ
がんばれるかな     wakkii 作

なるように
形になれば
良いかしら
明日には明日の
風が吹くかな    wakkii 作

どうしても
うまくいかない
日もあれば
明日にかける
思いは強し     wakkii 作

求めたい
我が生活に
平和なり
そこにあるのは
あたたかなもの   wakkii 作

同じ事
いろいろ試し
工夫する
万策尽きて
一休憩よ      wakkii 作

仕事して
うまくいかない
時あれば
なるようになる
時もあるかな    wakkii 作

一日の
何かをなした
感激は
かけがえのない
心地よさかな    wakkii 作

今までが
なんとかなった
人生だ
これからずっと
なんとかなるさ    wakkii 作

毎日を
なんだかんだと
仕事する
どうにかなって
摩訶不思議かな    wakkii 作

雨降れば
我が胸中は
物悲し
じっとこらえる
大和魂    wakkii 作

会議にて
気合の入る
心には
前進望む
大和魂    wakkii 作

夢を持つ
何をしようか
休みの日
そう思うのも
仕事のおかげ    wakkii 作

仕事して
前進できる
ありがたさ
心地良い汗
かけるといいな    wakkii 作

何事も
備えがあれば
憂いなし
出来る限りの
念を入れたい    wakkii 作

毎日の
仕事の機会
ありがたい
規則正しい
我がリズムかな    wakkii 作

感無量
仕事帰りの
金曜日
この日のために
サラリーマンよ   wakkii 作

今日もまた
一晩眠り
よみがえる
それが続けば
気分良しかな    wakkii 作

穏やかに
何事もなく
帰宅する
そんな事でも
ありがたきかな    wakkii 作

どうであれ
出来る限りの
仕事する
そんな事でも
大真面目かな     wakkii 作

雨の中
通勤をする
ひたむきさ
胸にいだいて
立ち向かうかな    wakkii 作

プログラム
うまく動けば
我が気持ち
何にも増して
愉快な気分      wakkii 作

ありがたく
何かが出来る
我が仕事
汗を流して
健康的よ     wakkii 作

苦労して
悩んだ挙げ句
思い付く
改善すべき
この世の形    wakkii 作

仕事場で
気合の入る
我が心
いつも通りで
やっているのに   wakkii 作

文章で
我が考えを
整理する
思いの他に
効果絶大      wakkii 作

なぜかしら
知らず知らずに
我が心
仕事をひかえ
気合が入る     wakkii 作

ありえない
なんでか起こる
ハプニング
対処できれば
良しとするかな   wakkii 作

少しずつ
進展すれば
いいかしら
頭に残る
時間必要      wakkii 作

気がつけば
あっという間に
時がたつ
としを重ねる
寂しさ募る     wakkii 作

何事も
一日重ね
仕事する
一歩一歩で
進むといいな     wakkii 作

ふと思う
どうなるかしら
運命よ
信じる道を
進むのみかな     wakkii 作

どうしても
連休控え
夢うつつ
期待ふくらむ
身の上かしら     wakkii 作

連休に
やる事多く
どうしよう
やりたい事を
やるべきかしら    wakkii 作

我ながら
人の振る舞い
見て思う
素敵な気持ち
大事にしたい     wakkii 作

我ながら
他人の気持ち
素敵なら
この世のために
幸せ願う       wakkii 作

我が仕事
やる事やれば
良しとする
前向きになり
ありがたきかな    wakkii 作

仕事にて
やる事やれば
文句なし
そんな気分で
充分かしら      wakkii 作

どうしたら
我が幸せを
つかめるか
わからぬなりに
求めてやまぬ     wakkii 作

どうしても
疲れた時は
少しずつ
何はともあれ
手堅くいこう     wakkii 作

格別な
お昼休みの
ひとときは
一息つけて
ありがたきかな    wakkii 作

なんとなく
帰宅間際が
いい気分
そんな気分も
乙なものかな     wakkii 作

穏やかな
時が流れる
昼休み
こんな毎日
続くといいな     wakkii 作

穏やかな
時が流れる
退勤時
こんな毎日
続くといいな     wakkii 作

少しずつ
前進したい
我が心
はやる気持ちを
おさえながらも    wakkii 作

出来るだけ
健康のため
散歩する
適度な疲れ
ありがたきかな    wakkii 作

みかん狩り
思う存分
楽しめた
気分転換
出来たから吉     wakkii 作

気持ちよく
ドラムをたたき
楽しめた
気分転換
出来たから吉     wakkii 作

我が身には
考えのない
話こそ
なすすべもない
つらい毎日      wakkii 作

我が身には
やる事がある
仕事こそ
気合の入る
ありがたさなり    wakkii 作

いつまでも
出来る限りの
仕事する
些細な事も
我が道かしら     wakkii 作

ありがたく
スキルが上がる
仕事なり
我が道をゆき
なるようになれ    wakkii 作

どうしても
緊張続く
仕事かな
我が行く末は
どうなるかしら    wakkii 作

穏やかな
帰宅帰りも
乙なもの
やる事やれば
仕事のおかげ     wakkii 作

つまらない
なすすべもない
人の声
ストレスたまり
ヘトヘトになる    wakkii 作

つまらない
ストレスたまる
人の声
理解できなく
ほとほと困る     wakkii 作

どうしても
気持ちのいれかえ
難儀なり
時間がかかる
我が心かな      wakkii 作

ありがたく
一息ついた
昼休み
些細な事も
活路あるかな     wakkii 作

出来るだけ
のどかに過ごす
休みの日
そんな気分も
活路あるかな     wakkii 作

修正を
繰り返すのは
なぜかしら
やればやるほど
何か見つかる     wakkii 作

良く寝れて
気分爽快
休みの日
そんな機会も
活路あるかな     wakkii 作

良く寝れて
やる事やれた
休みの日
どちらも出来て
文句なしかな     wakkii 作

我ながら
どこまで出来る
英語かな
なにはともあれ
時間をかける     wakkii 作

過ぎてみて
良くも悪くも
英語なり
いつになったら
使えるかしら     wakkii 作

疲れたら
横になるのも
休みなり
そんな時間も
我が道かしら     wakkii 作

我ながら
なんだかんだと
今週も
あっという間の
時間が過ぎる     wakkii 作

昼休み
のんびり出来て
ありがたき
そんな気分も
活路あるかな     wakkii 作

成果ある
仕事帰りは
格別なり
そんな気分も
活路あるかな     wakkii 作

つらいなら
何かをすれば
気にせずに
忘れていれる
真剣さあり      wakkii 作

つらいなら
没頭すれば
気にせずに
忘れていれる
活路求める      wakkii 作

落ち着いて
仕事がしたい
我が心
そんな心境
無理な事かな     wakkii 作

慣れぬなら
慣れるまで待つ
仕事かな
出来る事から
やるしかないね    wakkii 作

仕事して
何か出来れば
良しとする
こんな毎日
続くといいな     wakkii 作

仕事して
スキル上がれば
文句なし
思えば夢の
心地こそする     wakkii 作

休みの日
一息つけば
なおの事
気持ちいれかえ
がんばれるかな    wakkii 作

あれこれと
やりたい事が
あるうちは
あっという間に
時間が過ぎる     wakkii 作

出来るだけ
技術を学び
仕事する
何か良い事
あればいいのに    wakkii 作

出来るだけ
我が健康に
気をつける
自分に出来る
我が道かしら     wakkii 作

テストにて
気合の入る
困りよう
いつも通りに
やりたいのにな    wakkii 作

通勤時
何も出来ない
我が心
気合が入り
おかしなものよ    wakkii 作

出来るだけ
日進月歩
続けたい
やればやるほど
道があるかな     wakkii 作

なんとなく
休日くれば
元気出る
やる事やれて
うれしさ募る     wakkii 作

本読めば
世界広がる
魔法なり
機会があれば
めぐりあいたい    wakkii 作

いつまでも
自分に出来る
事をする
単純だけど
大事にしたい     wakkii 作

なぜだろう
ねる時だけが
極楽よ
そんな気分も
我が道かしら     wakkii 作

なぜだろう
くう時だけが
極楽よ
そんな気分も
我が道かしら     wakkii 作

少しずつ
時間をかけて
消化する
技術吸収
大変だから      wakkii 作

ありがたく
人とつながり
知識得る
そんな機会も
我が道かしら     wakkii 作

どうしても
繰り返すほど
仕事して
集中すれば
疲れがたまる     wakkii 作

正確に
仕事するなら
思うほど
単純作業
馬鹿にならない    wakkii 作

日曜日
名残惜しいな
休みの日
気合をいれて
なるがままかな    wakkii 作

よく眠り
よく勉強し
よく遊ぶ
週二日でも
ありがたきかな    wakkii 作

休みの日
何かをやれば
過ぎてゆく
大事な時間
名残惜しいな     wakkii 作

春なのに
勉強すべき
試験あり
散歩もしたい
我が心かな      wakkii 作

がんばるぞ
いろんな事が
出来るまで
何はともあれ
手堅くいこう     wakkii 作

改めて
時代の進歩
ありがたし
ついていくのも
大変だけど      wakkii 作

雨降れば
少しばかりは
涼しいな
時間がたてば
蒸し暑いけど     wakkii 作

ここにきて
暑さと到来
セミが鳴く
元気を出して
陽気でいたい     wakkii 作

梅雨明けず
気持ちの悪い
日が続く
気持ちで負けぬ
底力かな       wakkii 作

なんとなく
今年の夏も
がんばった
どこまでやれば
わからぬなりに    wakkii 作

どのように
対処すべきか
わからない
頭の中は
交通整理       wakkii 作

いろいろと
雑務をこなす
休みの日
横になるのも
必要かしら      wakkii 作

我が仕事
思うようには
いかないな
あれよあれよと
時間が過ぎる     wakkii 作

我が仕事
改善すべき
点ありて
頭の中は
作戦会議       wakkii 作

何気なく
テキスト読むも
骨をおる
どこまでやれば
わからぬなりに    wakkii 作

疲れたら
時間をかける
我が仕事
出来る事から
やるしかないね    wakkii 作

我が悩み
解決できぬ
診察日
何を話せば
救われるかな     wakkii 作

診察に
意味があるのか
わからない
心はどこか
むなしさ残る     wakkii 作

これからは
何か良い事
あるかしら
わからぬなりに
待ち望みたい     wakkii 作

あらためて
どこまでやれる
仕事かな
わからぬなりに
やるしかないね    wakkii 作

気になって
思う存分
散歩する
思い残さず
何かが出来る     wakkii 作

わからない
女の声に
疲れます
激しい主張
助けて欲しい     wakkii 作

日にあたり
日焼けするのも
仕方なし
健康的な
夏の一コマ      wakkii 作

勉強で
頭を使う
機会あり
極たまにでも
頭すっきり      wakkii 作

とりあえず
善処できれば
いいかしら
今があるのも
ありがたきかな    wakkii 作

わからない
どうすれば良い
ダイエット
我が運命は
どうなるかしら    wakkii 作

和やかな
時間が過ぎる
昼休み
一息ついて
がんばりたいな    wakkii 作

仕事して
無事に過ぎれば
ほっとする
何が良いやら
わからぬほどに    wakkii 作

なぜかしら
何とか無事に
仕事する
他人の力
頼もしきかな     wakkii 作

私にも
他人の力
得られれば
こんなうれしい
事はないのに     wakkii 作

最善を
やるだけやった
テストかな
どんな結果が
待っているやら    wakkii 作

久しぶり
東京に行く
機会あり
よくわからぬが
刺激を受けた     wakkii 作

いつまでも
自分にできる
仕事する
そんな事しか
考えられぬ      wakkii 作

ありがたく
ほぼ毎日が
感無量
お天道様に
感謝感激       wakkii 作

とりあえず
わけもわからず
仕事する
善処するしか
考えられぬ      wakkii 作

毎日が
一歩一歩で
進み行く
先のことまで
考えられぬ      wakkii 作

我が仕事
どうなる事か
わからない
やるだけやって
今日も過ぎゆく    wakkii 作

声の主
いいたい事が
意味不明
わけもわからず
今日も過ぎゆく    wakkii 作

感謝して
今日もめでたく
帰宅する
どうなる事か
わからぬままに    wakkii 作

毎日が
どうなる事か
必死なり
そんな時間が
感無量なり      wakkii 作

仕事して
ノルマこなせず
無念なり
出来る限りの
事はしたいな     wakkii 作

連休が
待ち遠しいよ
我が心
何が出来るか
期待ふくらむ     wakkii 作

なぜかしら
お高くとまる
声の主
気が楽だから
うらやましいな    wakkii 作

どうしても
話通じぬ
声の主
一方的で
疲れがたまる     wakkii 作

我が仕事
思うようには
進まない
心はどこか
申し訳ない      wakkii 作

我が仕事
どうなる事か
わからない
自分に出来る
仕事がしたい     wakkii 作

難しい
作業の中で
仕事する
奥の深さに
実感こもる      wakkii 作

ありがたく
何とか無事に
一仕事
思い返せば
よく頑張った     wakkii 作

なんとなく
ここ一ヶ月
忙しい
不安かかえて
よく頑張った     wakkii 作

情報が
乏しいために
難儀だな
どこまで出来る
我が仕事かな     wakkii 作

時間かけ
世界広がる
プログラム
うまく動けば
感謝感激       wakkii 作

奥深い
世界がみえる
プログラム
やればやるほど
迷路みたいだ     wakkii 作

進歩する
世界がみえる
プログラム
自分も進歩
していきたいな    wakkii 作

出来るだけ
全力つくす
我が仕事
我が運命は
どうなるかしら    wakkii 作

本読めば
気分転換
出来るなり
時間たつのも
早いけれども     wakkii 作

今はもう
台風過ぎて
夢のよう
我が人生も
気分は同じ      wakkii 作

信ずれば
何をやっても
仏あり
見通すものに
救われるかな     wakkii 作

秋になり
食欲進む
困りよう
重い体重
気をつけたいな    wakkii 作

終わり無き
仕事が続く
人生よ
満足せずに
邁進したい      wakkii 作

仕事して
どうなるかしら
運命は
わけもわからず
ベストを尽くす    wakkii 作

どうしても
思うようには
進まない
出来る限りの
わが道かしら     wakkii 作

ありがたく
解放された
休みの日
期待高まる
食う寝る遊ぶ     wakkii 作

出来るだけ
健康的な
散歩する
なのに求める
目的意識       wakkii 作

どうすれば
英語上達
するかしら
頭に残る
ものを求めて     wakkii 作

プログラム
エラーが起きて
骨をおる
うまくいくまで
気が抜けないね    wakkii 作

休みの日
こころゆくまで
眠りたい
おなかがすいて
目が覚めるけど    wakkii 作

診察日
我が身のつらさ
訴える
頼れるものは
他にないかな     wakkii 作

雨が降り
心はどこか
さびしいな
こんな思いは
続くのかしら     wakkii 作

試しつつ
明日につなげる
仕事する
わからぬなりに
やるしかないね    wakkii 作

いい加減
良くならないか
この世界
自分の思い
どこにあるやら    wakkii 作

どこまでも
自分が出来る
仕事して
わからぬなりに
進んでいくよ     wakkii 作

休みの日
時間があれば
横になる
そんな機会も
気が楽になる     wakkii 作

休みの日
明日の仕事
気が重い
知らず知らずに
気合が入る      wakkii 作

期待する
食う寝る遊ぶ
休みの日
思う存分
謳歌したいな     wakkii 作

毎日が
必死になって
勝負なり
今があるのが
不思議なくらい    wakkii 作

我が世界
現実にある
別世界
シンクロすると
効果抜群       wakkii 作

出来るなら
心やすまる
休みの日
思い思いの
日が過ぎてゆく    wakkii 作

我ながら
先行き見えぬ
運命に
わずかばかりの
希望をたくす     wakkii 作

なぜだろう
先行き見えぬ
運命に
なぜか毎日
続いていくよ     wakkii 作

一日に
何が出来るか
わからない
なのになぜだか
続いていくよ     wakkii 作

一日が
なんだかんだと
必死なり
いつになったら
救われるかな     wakkii 作

仕事して
わけもわからず
落ち着かぬ
どんな運命が
待っているやら    wakkii 作

頑張って
わけもわからず
仕事する
どんな運命が
待っているやら    wakkii 作

穏やかな
時が流れる
昼下がり
そんな気分も
乙なものかな     wakkii 作

休みの日
雑務におわれ
過ぎてゆく
必要ならば
仕方なしかな     wakkii 作

どうしても
天国である
休みの日
あっという間に
過ぎてゆくけど    wakkii 作

どうしても
先行き見えぬ
仕事なり
いつになったら
落ち着けるやら    wakkii 作

休みの日
散歩が出来て
ありがたく
健康的な
すがすがしさよ    wakkii 作

不具合に
右往左往の
我が仕事
思うようには
うまくいかない    wakkii 作

目にうつる
色とりどりの
もみじなり
気持ちあらたに
時が流れる      wakkii 作

どうしても
好転しない
仕事なり
我が人生は
どうなるかしら    wakkii 作

一日の
仕事が終わり
ホッとする
そんな時間が
乙なものかな     wakkii 作

かなりある
作業量には
へこたれる
やるだけやって
天命を待つ      wakkii 作

週末は
疲れがたまる
仕事なり
可能な事を
する限りかな     wakkii 作

年末は
やりたい事を
やりつくす
気持ち新たに
がんばりたいな    wakkii 作

年末は
読みたい本を
読みつくす
心はどこか
感無量なり      wakkii 作

我が仕事
あっという間に
過ぎてゆく
どんな未来が
待っているやら    wakkii 作

一人では
無理な仕事を
やっている
我が運命は
どうなるのやら    wakkii 作

疲れれば
ゆっくり出来る
休みなり
期待高まる
我が心かな      wakkii 作

数学の
歴史を読めば
面白い
どこまで出来る
人間かしら      wakkii 作

なぜだろう
なんだかんだと
仕事する
がんばったから
許して欲しい     wakkii 作

どうしても
わからぬなりに
仕事する
今日一日が
どうなるかしら    wakkii 作

いろいろと
雑務をこなす
休みなり
あれよあれよと
時間が過ぎる     wakkii 作

仕事して
あっという間の
時間なり
何か他にも
やらせて欲しい    wakkii 作

いい加減
私が望む
順番で
やりたい事を
やらせて欲しい    wakkii 作

わからない
どんな未来が
あるのやら
がんばったから
許して欲しい     wakkii 作

我が仕事
やるにはやるが
荷が重い
どんな未来が
待っているかな    wakkii 作

我が仕事
思うようには
進まない
頑張ったから
許して欲しい     wakkii 作

わからない
どれだけ出来る
仕事かな
我が行く末は
どうなるのやら    wakkii 作

新年の
願いをこめる
年賀状
もういい加減
いい年になれ     wakkii 作

早朝の
緊張もって
吐き気あり
どんな未来が
待っているかな     wakkii 作

旧年は
ストレスたまり
新年は
もういい加減
いい年になれ      wakkii 作

診察日
解決できぬ
我が気持ち
声を大にし
訴えたいな       wakkii 作

雑務あり
歩き疲れる
休みなり
健康的に
大切かしら       wakkii 作

たまらない
ストレスたまる
毎日が
どうにもならぬ
身の上かしら      wakkii 作

年末は
やりたい事を
やりつくす
思い残さず
年を越したい      wakkii 作

出来るだけ
メトロノームに
合わせたい
そんな基本も
大変である      wakkii 作

なんでだろ
募る思いが
増していく
みんながいれば
何とかなるさ     wakkii 作

少しずつ
ホームページを
作りたい
話題にしたい
テーマあるなら    wakkii 作

詩を読んで
参考にして
詩を作る
我が構想が
問われそうなり    wakkii 作

古文から
短歌の技法
学ぶべし
工夫を重ね
作る余地あり     wakkii 作

できるだけ
少しずつだが
古文読む
期待高まる
我が短歌かな     wakkii 作

どのように
認識しつつ
鳥たちは
近づく我を
さけていくやら    wakkii 作

あたたかな
我が手の上に
メジロあり
ぬくもり残し
思いを馳せる     wakkii 作

愛らしい
カモの姿を
見るたびに
ほのぼのとした
気持ちにさせる    wakkii 作

窓越しに
垣間見えるよ
富士山が
見守られつつ
はれたひととき    wakkii 作

休みの日
極たまにでも
求めたい
長い時間を
感じる力    wakkii 作

世の中が
少しぐらいは
まわるかな
祈りよとどけ
神や仏よ     wakkii 作

可能性
広げる事が
愛である
どんな立場も
関係ないさ     wakkii 作

可能性
広げる事が
愛である
どこに居ようが
関係ないさ     wakkii 作

ひさかたの
雨の降る日を
ただ独り
過ごしたらむに
いぶせかりけり   wakkii 作

おのおのの
思ひ通じぬ
世の中は
空しきものと
悲しかりけり    wakkii 作

我が過去の
困難多い
身のほどを
思えば夢の
心地こそする    wakkii 作

いろいろと
日々の生活
進めれば
後戻りせぬ
身に救われる    wakkii 作

さりともと
頼む心の
ゆく末も
何かをせむに
まぎれるかしら   wakkii 作

許さるる
出来る事して
判断は
思へば知らぬ
世にまかすらん   wakkii 作

悩みつつ
解決できぬ
つらさあり
仰げば空に
月ぞさやけき    wakkii 作

都より
拝む富士から
湧きいづる
三島の水は
すみよかるらん   wakkii 作

海ならず
湛へる水の
底までに
没入せむは
月ぞ照らさん    wakkii 作

我が過去の
いろいろありて
いかにぞと
心に問ひて
答へかねぬる    wakkii 作

春過ぎて
夏来にけらし
汗かかむ
乾したる衣
着替えてうれし   wakkii 作

すべき事
やり続かむも
そのうちに
心は花に
なさばなりなん   wakkii 作

今はただ
思ひ絶えなむ
心だに
いかでゐるやと
こころもとなし   wakkii 作

望むべき
人の幸せ
確かめに
今ひとたびの
逢ふこともがな   wakkii 作

忘れない
あの約束を
してくれた
そのやさしさに
心をとめて     wakkii 作

やさしさに
思いが募る
あの頃の
あの苦しさを
越えたからこそ   wakkii 作

和やかに
創作できた
短歌には
思いをはせる
心ありけり     wakkii 作

俳句にて
季節表す
心なり
作ってみれば
風情あるかな    wakkii 作

なんとなく
期待ふくらむ
冬休み     wakkii 作

冬休み
何かが出来る
時間あり    wakkii 作

時がたつ
早さ感じる
年の暮れ    wakkii 作

年末に
今年一年
振り返る    wakkii 作

一年は
師走とともに
あわただし     行有

一年を
師走とともに
ふりかえる     行有

来年を
おごそかに待つ
除夜の鐘    wakkii 作

ありがたや
心あらたに
年を越す    wakkii 作

段々と
気持ちが暮れる
年の暮れ      行有

あらためて
新年むかえ
始動する      行有

初富士が
威厳を持って
そびえ立つ     行有

どことなく
雑煮を食べて
おめでたい     行有

はればれと
未来にたくす
初日の出    wakkii 作

書初で
気合の入る
我が心     wakkii 作

おめでたい
正月の朝
雑煮なり    wakkii 作

おめでたい
気持ちをしるす
初日記     wakkii 作

できるなら
気持ちいれかえ
初詣    wakkii 作

読初で
集中できた
機会あり  wakkii 作

おめでたい
あっという間の
三が日   wakkii 作

晴天の
初富士拝む
機会あり  wakkii 作

元気よく
仕事始で
朝起きる  wakkii 作

弾初で
望むものなら
リフレッシュ  wakkii 作

我が屋にて
小春日和で
のどかなり   wakkii 作

温水が
出てくるまでは
寒の水     wakkii 作

見渡して
落ち葉をふめば
風情かな    wakkii 作

あざやかな
気分すぐれる
冬紅葉     wakkii 作

重ね着で
心身ともに
あたたまる   wakkii 作

こたつにて
心身ともに
あたたまる   wakkii 作

心身が
冷えないように
風邪に勝つ   wakkii 作

あたたまる
鍋焼きうどん
食べながら   wakkii 作

冬の朝
元気を出して
起き上がる   wakkii 作

我が屋にて
日向ぼっこも
良い気分    wakkii 作

朝晩と
冷え込みきつく
コート着る   wakkii 作

すみきった
空気おいしい
冬の空     wakkii 作

ありがたく
季節到来
おでんかな   wakkii 作

ふとんにて
楽園気分
乙なもの    wakkii 作

さわやかな
散歩が出来る
冬日和     wakkii 作

心まで
はれた気分の
冬日和     wakkii 作

重ね着で
散歩をすれば
汗をかく    wakkii 作

乙なもの
本を読みつつ
日向ぼこ    wakkii 作

朝方の
バスを待ちつつ
息白し    wakkii 作

北風に
鍛えられるよ
我が心     wakkii 作

早朝の
眠りが深く
冬深し     wakkii 作

待ちに待ち
気持ちはすでに
春支度     wakkii 作

ポカポカの
日差しを浴びて
春隣      wakkii 作

もうすでに
いつの間にやら
二月かな    wakkii 作

節分で
鬼は退散
福よ来い    wakkii 作

ひな祭り
なってみたいな
姫と殿     wakkii 作

春先は
日が進むのを
待ち望む    wakkii 作

寒の明け
ここしばらくの
がまんかな   wakkii 作

朝晩は
厳しさ残る
余寒かな    wakkii 作

春きざし
目覚めの早い
変化あり    wakkii 作

暮れがたい
希望持ちつつ
日が進む    wakkii 作

春の朝
気分すぐれる
日差しなり   wakkii 作

春寒に
耐えて忍めば
日が進む    wakkii 作

目覚めれば
気分快適
春の朝     wakkii 作

春光に
包まれながら
元気出る    wakkii 作

春の日や
気持ち新たに
元気出る    wakkii 作

梅が咲き
うれしさ募る
我が心     wakkii 作

華やかな
河津桜が
目に残る    wakkii 作

柿田川
微妙だけれど
ぬるかった   wakkii 作

新鮮な
気持ちにさせる
春の光     wakkii 作

菜の花の
清いまぶしさ
目にうつる    wakkii 作

春寒や
耐えて忍ぶも
あと少し     wakkii 作

いつの日か
桜咲く時期
期待する     wakkii 作

三月や
気分一新
新天地      wakkii 作

気がついた
春の気配に
希望もつ    wakkii 作

新鮮な
気持ちにさせる
春景色     wakkii 作

何となく
日永になりて
元気出る     wakkii 作

春雨や
物悲しさに
引き締まる    wakkii 作

ユニークが
通じるかしら
万愚節      wakkii 作

試験あり
散歩もしたい
四月なり     wakkii 作

桜咲く
何はともあれ
めでたいね    wakkii 作

目に残る
桜吹雪の
木の下で     wakkii 作

いつまでも
目に残したい
桜かな      wakkii 作

桜咲き
心ゆくまで
眺めたい     wakkii 作

桜見て
無常なれども
未来あり    wakkii

新しい
門出を祝う
桜かな     wakkii

出来るなら
お花見気分
ありかしら    wakkii 作

望むなら
お花見気分
めでたいな    wakkii 作

散歩して
春を求める
我が心      wakkii 作

休みの日
春を求めて
散歩する     wakkii 作

胸中で
鶯の声
こだまする      wakkii

暖かい
陽気を浴びて
すがすがし      wakkii

でかければ
春のまわりは
まぶしいな    wakkii 作

でかければ
春のまわりは
めでたいな    wakkii 作

なんでだろ
いろいろしたい
四月なり     wakkii 作

どうしても
いろいろしたい
春である     wakkii 作

春の日に
でかけてみたい
休みの日     wakkii 作

春の日に
散歩がしたい
休みの日     wakkii 作

先見えず
春をむかえて
切ないな     wakkii 作

春が来て
期待が持てず
切ないな     wakkii 作

春が来て
人の幸せ
まぶしいな    wakkii 作

春が来て
人の幸せ
願うなり     wakkii 作

幸せで
胸いっぱいの
春だなあ     wakkii 作

希望持つ
胸いっぱいの
春だなあ     wakkii 作

幸せの
他人がいれば
春だなあ     wakkii 作

希望持つ
他人がいれば
春だなあ     wakkii 作

幸せの
誰かがいれば
春だなあ     wakkii 作

希望持つ
誰かがいれば
春だなあ     wakkii 作

鳥の巣に
微笑ましさを
にじませる    wakkii 作

飛んでても
燕とわかる
季節かな     wakkii 作

出来るなら
試験をひかえ
春心       wakkii 作

春興の
試験になれば
良いかしら    wakkii 作

毎朝に
闘う事は
春眠し      wakkii 作

季節もの
春の筍
ありがたい    wakkii 作

我ながら
気持ちとともに
風光る      wakkii 作

春の日に
誘われながら
散歩する     wakkii 作

なんとなく
草餅あれば
お茶がいる    wakkii 作

我ながら
季節感じる
桜餅       wakkii 作

休みの日
時間があれば
のどかなり   wakkii 作

うららかに
気分すぐれて
元気出る    wakkii 作

穏やかな
心のように
暮れなずむ    wakkii 作

春風に
包まれながら
和やかよ     wakkii 作

なにげなく
力仕事で
春暑し      wakkii 作

歩きつつ
日差しを浴びて
春暑し      wakkii 作

花が散り
寂しさ募り
春惜しむ     wakkii 作

我が心
薄着になれば
春深し      wakkii 作

蝶と花
例えるならば
誰と誰      wakkii 作

蝶と花
はたから見ても
優雅なり     wakkii 作

草若葉
心もどこか
あらわれる    wakkii 作

前向きに
春の別れが
おとずれる    wakkii 作

元気よく
のびのび出来る
夏を待つ    wakkii 作

どことなく
日差しを感じ
夏隣      wakkii 作

どの年も
あれよあれよと
五月来る    wakkii 作

昼時の
日差しの強さ
夏兆す     wakkii 作

元気よく
耐えねばならぬ
暑さかな    wakkii 作

日に当たり
汗が気になる
日々きたる   wakkii 作

青芝の
手入れ届いた
苦労あり      wakkii

段々と
使い始める
団扇かな      wakkii

なぜかしら
目覚めの早い
夏の朝     wakkii 作

のど渇き
麦茶恋しい
日々きたる   wakkii 作

穏やかな
時が流れる
夏の暮れ    wakkii 作

日中の
日差しを受けて
薄暑かな    wakkii 作

目に止まる
あちらこちらで
夏ツバメ    wakkii 作

新緑の
すがすがしさが
身にしみる   wakkii 作

新緑の
空気を吸って
元気出る     wakkii

心持ち
昼飯食べて
汗をかく     wakkii

夏鴨の
姿しぐさが
愛らしい    wakkii 作

驚いた
逃げるトカゲに
我が方も    wakkii 作

穏やかな
気分にひたる
新茶かな    wakkii 作

行水も
気分すっきり
乙なもの    wakkii 作

新鮮な
時が流れる
夏衣      wakkii 作

歩いたら
扇をあおぎ
必死なり    wakkii 作

網戸から
風が流れる
風情かな    wakkii 作

運動後
ビールのうまい
日が来たる   wakkii 作

歩いたら
健康的な
汗が出る    wakkii 作

じっとして
梅雨にも負けぬ
無心かな    wakkii 作

穏やかな
森林浴も
元気出る    wakkii 作

五月雨や
気分のはれぬ
うわの空    wakkii 作

五月雨や
汗を流せば
蒸し暑い    wakkii 作

紫陽花を
愛でる頃には
雨が降る    wakkii 作

たたずんで
何ともいえぬ
梅雨かな     行有

じっとして
ひたすらたえる
梅雨かな     行有

ひたすらに
いつまで続く
梅雨かな     行有

あじさいが
枯れる頃まで
雨が降る     行有

耐えるべき
うなる暑さが
やってくる   wakkii 作

六月の
過ごしやすさと
ともにする   wakkii 作

あらためて
水着姿に
季節感     wakkii 作

水遊び
開放感に
包まれる   wakkii 作

続かない
プールで泳ぐ
ダイエット   wakkii 作

気持ちよく
泳ぐ金魚に
いやされる   wakkii 作

夕立や
幾度か過ぎる
風物詩     wakkii 作

夜中こそ
幻想的な
キャンプかな   wakkii 作

疲れれば
酢に誘われて
寿司欲す   wakkii 作

疲れれば
元気をつける
鰻かな    wakkii 作

カジュアルな
ムードの中で
半ズボン    wakkii 作

盛夏にて
いてもたっても
陽気なり    wakkii 作

暗闇で
蛙の音が
やかましい     行有

やかましい
ギラギラとした
蝉の音       行有

大空に
ひまわりの花
元気良し      行有

晴れわたる
開放的な
夏かしら      行有

休みの日
何とも言えぬ
昼寝なり   wakkii 作

ありがたく
景色ながめる
登山なり   wakkii 作

穏やかな
気持ちにひたる
夜店かな    wakkii 作

我が方も
お祭り気分
めでたいね   wakkii 作

疲れれば
アイスクリーム
欲しくなる   wakkii 作

夏の虫
まとわりつけば
あわてます   wakkii 作

雲海や
私の道も
見え隠れ    wakkii 作

汗をかき
純粋なれば
胸を打つ    wakkii 作

すさまじい
雷の音
おそろしや   wakkii 作

豪快な
余韻の残る
滝しぶき    wakkii 作

雨蛙
見ずに久しい
大人かな    wakkii 作

一服の
アイスコーヒー
いやされる   wakkii 作

雨上がり
見事にかかる
虹の橋     wakkii 作

空高く
のびるひまわり
たくましい   wakkii 作

いつまでも
線香花火
続くかな    wakkii 作

いつまでも
心に残る
花火かな    wakkii 作

何遍も
うなる暑さに
うなだれる   wakkii 作

元気出し
うなる暑さと
ともにする   wakkii 作

やかましい
蝉の声にも
うなだれる   wakkii 作

つかの間の
暑さ一息
夏の宵     wakkii 作

炎熱や
気持ちで負けぬ
陽気なり    wakkii 作

元気出し
極暑に負けぬ
陽気なり    wakkii 作

涼むのも
いろいろ用い
乙なもの    wakkii 作

移りゆく
変化に気づく
夜の秋     wakkii 作

待ち望む
心はどこか
秋隣      wakkii 作

いろいろと
思い出あれば
夏惜しむ    wakkii 作

帰省する
心はどこか
うわの空    wakkii 作

期待する
何かが出来る
盆休み     wakkii 作

もう二度と
起こらぬように
原爆忌     wakkii 作

あらためて
平和よ続け
終戦日     wakkii 作

いろいろと
思い出残る
八月よ     wakkii 作

しゃぎり鳴る
三島大社の
盆祭り     wakkii 作

スイカにて
満喫できる
この季節    wakkii 作

ありがたし
うまいサンマに
季節感     wakkii 作

移りゆく
季節感じる
桃である    wakkii 作

移りゆく
季節むかえる
ぶどうかな   wakkii 作

いつの間に
たくさん食べる
枝豆よ     wakkii 作

おやつなり
トウモロコシの
あまい味    wakkii 作

味噌汁に
キノコの味が
絶品よ     wakkii 作

早朝の
朝顔の花
はかないね   wakkii 作

秋のセミ
いつの間にやら
鳴き終わる     wakkii 作

気がつけば
いつの間にやら
虫が鳴く      wakkii 作

台風で
いつもと違う
雨と風     wakkii 作

もちこたえ
残暑しのげば
ほっとする   wakkii 作

愛かしら
何気に食べる
トロロ芋    wakkii 作

夏の果て
感じ始める
朝と夜     wakkii 作

出勤時
気分すぐれる
秋の朝     wakkii 作

出来るなら
秋めく気配
気づきたい   wakkii 作

期待する
新涼求め
今日もゆく   wakkii 作

出来るなら
夜なべがしたい
身の上よ    wakkii 作

出来るなら
初秋の変化
気づきたい   wakkii 作

秋扇
まだしばらくは
必需品    wakkii 作

出勤時
実感こもる
休暇明     wakkii 作

いつか見て
思いをはせる
天の川     wakkii 作

あらためて
思いをはせる
星月夜     wakkii 作

あらためて
幻想的な
月明かり    wakkii 作

移りゆく
季節むかえる
彼岸花     wakkii 作

移りゆく
季節感じる
トンボかな   wakkii 作

健やかに
読書の秋が
ありがたや    行有

何かして
気分すぐれる
秋である     行有

収穫の
季節感じる
秋の味     wakkii 作

どことなく
風情感じる
秋日和     wakkii 作

サツマイモ
ホクホクとして
あったまる   wakkii 作

愛かしら
何気に食べる
リンゴかな   wakkii 作

うれしいな
香り豊かな
キノコ飯   wakkii 作

より一層
味わい深い
キノコかな  wakkii 作

ありがたく
食欲そそる
栗ご飯    wakkii 作

栗食べて
季節楽しむ
我が心    wakkii 作

気持ちいい
空気の澄んだ
秋晴れよ   wakkii 作

退勤時
秋の夕暮れ
目のあたり  wakkii 作

だんだんと
快適になる
九月かな    wakkii 作

希求する
秋を感じる
我が体     wakkii 作

いつもより
おいしい蕎麦が
食べたいな   wakkii 作

食べてみて
食欲そそる
落花生     wakkii 作

気がつけば
コスモスの花
咲いている   wakkii 作

気味悪く
イナゴをよける
散歩道     wakkii 作

なんとなく
完熟柿が
苦手なり    wakkii 作

いつもより
うまい秋茄子
食べたいな   wakkii 作

秋づいて
良い気分にて
良く眠る    wakkii 作

秋めいて
何かが出来る
季節かな    wakkii 作

快適に
月を眺める
ゆとりあり   wakkii 作

流れ星
多くて困る
願い事     wakkii 作

あらためて
季節むかえる
ナシである   wakkii 作

愛かしら
何気に食べる
カボチャかな  wakkii 作

秋の日に
散歩がしたい
我が心     wakkii 作

気がつけば
あたり一面
秋の声     wakkii 作

朝寒で
眠たさ残る
つらさかな   wakkii 作

どこ行けば
トンボにあえる
季節かな    wakkii 作

名月や
心は少し
おめでたい   wakkii 作

心から
めでたくはれる
良夜なり    wakkii 作

十六夜
空をながめる
ゆとりあり   wakkii 作

心持ち
長続きする
秋の雨     wakkii 作

夜寒にて
布団に入る
心地よさ    wakkii 作

朝寒で
起きるつらさが
身にしみる   wakkii 作

一面に
キンモクセイの
いいにおい   wakkii 作

見渡せば
空気のすんだ
秋の空     wakkii 作

十月や
散歩がしたい
我が心     wakkii 作

十月や
何かがしたい
我が心     wakkii 作

大切な
人の幸せ
願う秋     wakkii 作

幸せの
誰かがいれば
秋祝う     wakkii 作

赤い羽根
わずかばかりの
寄付をする   wakkii 作

どことなく
空気が違う
秋の昼     wakkii 作

何気なく
忘れた頃に
扇置く     wakkii 作

秋簾
思い出残し
ふりかえる   wakkii 作

青空に
包まれながら
秋高し     wakkii 作

秋の暮れ
山を眺めて
帰宅する    wakkii 作

気分良い
晴れた青空
秋麗   wakkii 作

秋の風
気づいていれば
こころよし   wakkii 作

山肌が
色づいた頃
秋深し     wakkii 作

胡麻の味
ささやかな愛
きいている   wakkii 作

おいしくて
食が進むよ
唐辛子     wakkii 作

何気なく
生姜がきて
おいしいね   wakkii 作

身に入めば
温かなもの
火がともる   wakkii 作

冷やかな
空気を前に
立ち向かう   wakkii 作

見渡せば
気分すぐれる
秋の山     wakkii 作

だんだんと
寒さこたえる
秋の朝     wakkii 作

菊の花
楽寿園にて
咲き誇る    wakkii 作

早々と
過ぎてしまって
秋惜しむ    wakkii 作

起床時の
寒さこたえて
秋深し     wakkii 作

山林の
葉が色づけば
秋深し     wakkii 作

行秋や
時の流れが
早すぎる    wakkii 作

日に当たり
空気を吸って
秋惜しむ    wakkii 作

気のせいか
覚悟を決める
九月尽     wakkii 作

鍋物が
恋しくなれば
冬近し     wakkii 作

いつの間に
時が過ぎゆく
暮れの秋    wakkii 作

すさまじき
空気を吸って
整える     wakkii 作

知らぬ間に
もみじが終わる
さみしさよ   wakkii 作

いつの間に
秋が過ぎゆく
さみしさよ   wakkii 作


短歌と俳句の作り方
まず最初に5音を作る。
もし5音を作るのが難しかったら
単語を
3音+2音もしくは2音+3音、
4音+1音もしくは1音+4音のように
単語を足し算して作る。
7音の作り方。これが作れれば短歌や俳句を作れるのも同然。
5音と同じように単語を
3音+1音+3音、
3音+4音もしくは4音+3音、
2音+5音もしくは5音+2音のように
単語を足し算して作る。
7音を超える単語の場合は例えば5音と7音のように分割して別表現する。
どうしても作れない最後の手段は
5音が出来なければ7音で表現してみる。
7音が出来なければ5音で表現してみる。

俳句の季語は本で調べるか自分で作る。
これだけで自分の気持ちが自由に表現できる。
表現してみて自分の気持ちがわかる事もある。

私の場合、最初は作るのに時間がかかるけど
続ければ自分の気持ちが変化する事が出来れば簡単に作れるようになる。

  1. 持論 :
  2. まず第一に自分ができる行動に対して楽しめてエキサイトできる経験をすることと尚且つシンプルな工夫ができるようになることが
    最も基本的な教育だ。
    これは例えば養殖や家畜や作物を育てるような苦労を買ってでも人間が得たい大きな喜びのうちの一つだ。言うなれば人生の中で結果がでる過程は喜びだけじゃあないのだ。その過程に学びがあり、且つ恥をしのんだ冒険なのだと思う。

  3. 持論 : 「一日単位の生活習慣が大切」  -------->  花のある生活
  4. 持論 : 「何かしら行動しなければ発想も浮かばないし可能性も生まれない。」
  5. 持論 : 「整理して発言するべし。」
  6. 思いつきで随時言われると集中力が途切れて自分自身で考える気力が薄れる。もうちょっと自分の考えを整理して話が出来るようにした方が良いのではないかと思う。結局口うるさく言うより、関連のある良い機会を考えて相手の気持ちになって、どのように考え行動すべきか整理してまとめて言う方が相手だって物事をいろいろ考えられ工夫できる。相手の方には物事を考える集中力と考える時間が大切だと私自身そう思う。

  7. 持論 : 「出来るだけペンを立てて日本語は書くべし。」
  8. 私の場合日本語は出来るだけ、シャーペンやペンを立てれば幾分きれいに書ける。なぜなのか原因不明である。私に筆使いの経験があるからだろうかと考えたりする。

  9. 補足 : 「遊び心もって、ころがして大きくする。」
  10. 人生をやり直したいという人も私の人生の中で遭遇した。 そういう過去の振り返りしかできないなら 現時点で前向きに生きれないのではないかと私は思う。 現時点で必要な事は遊び心もって、ころがして大きくする事である。 限られた自分出来る事から いかにころがして大きくできるのかそういう発想が大事である。 いくらか過去の経歴があれば自分の人生が違うじゃあないのか 思いたくなるのもわからなくはないが 例え人間がどんなに恵まれた環境にいても 結局、現在と似たような問題に直面すると思う。 だとしたら自分自身が今現時点から物事を進めるために いかに遊び心あふれるものをころがして大きく出来るのか考えた方が 私には得策だと思えるのです。

  11. 補足 : 「信憑性と効果」
  12. 私のやる事がそんなに科学的なのか自信が無い。 科学的というより 自分が感じる信憑性の高いものを追いかけているような気がしている。 もしかしたら私の話がわかると思えば私を理解した気になるのかもしれない。 世の中他人の事が良くわからない事はたくさんあるけれど、 私の場合、信憑性の高いものを追いかけて説明しているうちに そのように感じる私の事まで説明している気がする。 もしそれが他人に共感を与えるなら 信憑性の高いものを感じる感受性こそ最も大事なのかもしれない。 アイツはダメなんて言ってはダメだ。 そこで自分自身の信憑性が失われる。 ある程度、信憑性と効果に神経質になった方が良い。 その方が信頼性がある気がする。

  13. 補足 : 「合理的判断を伴う戦略と人と時間」
  14. 我々が戦略を持って人と時間を有効活用するには 局所的な一部分に対して各自で合理的判断が明確にできる世の中が大事である。 我々が出来る事は局所的な一部分に信憑性を持たせる事である。 その信憑性が合理的に判断出来なければ戦略と人と時間は無駄になる。 つまり我々の合理的判断をもとに 我々の持つ戦略と人と時間を局所的な一部分のために費やしているのである。 戦略と人と時間を費やす事に肯定的で 戦略と人と時間に希望を持ち 戦略と人と時間をもっともっと大事に出来る やさしい世の中になって欲しいとそう私は願っている。

  15. 補足 : 「現実とのミスマッチ」
  16. 常に私の恐れているものは現実のミスマッチである。 だから慎重になろうと努めている。 あんまり現実とかけ離れた理論は危険だし そうした理論かどうか確かめもせず一人歩きするのを私は恐れるのである。 理論は美しいゆえに危険なものでもあるわけである。 そういう配慮が出来なければ 理論を掲げても迷惑になるかもしれないのである。

  17. 補足 : 「理論と理想の転がる先」
  18. 私は 理論の転がる先まで面倒見る事を恐れている。 もしかしたら無駄な時間に終わるかもしれないからだ。 私の時間は意味のある時間にしたい。 だから理論を転がす事に熱心だが 転がる先まで面倒を見れない。 私には 理想も同じように思う。 世間は転がす事は出来ても 転がる先までは面倒見れないのではないか? 深追いすると無駄な時間になってしまう気がする。 それだけのデータを持ち合わせていないからだ。 データと照らし合わせれる者だけが 転がる先を予見出来る。 そんな身分になりたいが 大半の人はそんな身分で無いわけで もっぱら理論や理想を転がす事に熱心になるべきで 理論や理想がどうなるかまで考えるだけ無駄である。 我が運命はどうなるのかわからないけど 自分なりに物事を転がしながら物事が大きく転がる方へ転がしていきたいそう思っている。 一応、世の中が転がってればいいんじゃあないか?そんな気がした。

  19. 補足 : 「生きるとは?」
  20. 生きるとは我慢してもがいて耐える事である。
    我慢して様々な食べ物を食べる。
    我慢して勉強する。
    我慢して仕事する。

    我慢してもがいて耐えなければ生きていけない。
    そうしなければ何も成就しない。

    そう私自身心のどこかで感じるからこそ
    荒波の中でも生きていけるそう私は思っている。

    弱気になっても必死に抵抗する私がどこかにいるのである。
    結局それが私に生きろと言っている気がするのである。

  21. 補足 : 「悟りと仕事」
  22. 自分自身が精神上未熟と認識すれば
    自分の仕事をやってやりまくるしかないそう思う。

    自分の仕事をやってやりまくれば
    その仕事に抵抗がなくなる。
    普通に自分の仕事が出来るのである。

    結局いろいろな仕事に抵抗がなくなるために
    自分の仕事をやってやりまくるのである。

    そこで自分はあらゆる抵抗がなくなっていき、やがて
    この世の我が生にも抵抗がなくなり
    ついには生きている事に感謝出来るのかもしれない。


  23. 補足 : 「珍しいとかこわいとか理解できない 」
  24. 面白い人生を謳歌するには
    それなりの代償が必要である。
    自分だけの問題でもない。社会的な問題もある。
    自分が得たいものに対して社会的なものを自分が満たす必要もある。
    だからこそ
    その一つ一つを真面目に考えなければ
    面白い人生にはならない。

    つまり
    通り抜けていくステージがたくさんあるのである。
    避けて通れないからこそ
    一つ一つを真面目に考えていくしかない。
    そこで始めて
    色んな事を構成できる。

    逃げていては何も得られない。
    せめて問い詰めて考えるしかない。


  25. 補足 : 「コワイ」
  26. 勉強すればコワイし
    研究すればコワイし
    仕事すればコワイ。
    ありふれた世界だと思うんですけど何がいけないのかわからない。

    多分私が思うに私には責任がないけど
    上の人は私のやる事に責任があるからじゃあないでしょうか。

    私は出来る限り上の人の要求に応えるしかない。
    怒られても上の人の話をよく聞くしかない。

    責任に逃れて上の人になりたいと思わなければ
    誰でもコワイ状況はあたり前だし
    責任のある上の人になれば下の人のやる事に責任があるから
    誰でも整合のとれたコワサが伴うと私は思う。

    こわくても自分の事情と改善点をコミュニケーション出来れば
    きっと道は開かれる。


  27. 補足 : 「負け戦と勝ち戦」
  28. 日本の戦を知れば
    勝ち戦をする殿様もいれば
    負け戦をする殿様もいた。

    勝ち戦を続けるには
    未来の新時代を読み取る事ができるかにかかっている。
    負け戦をする殿様は
    今までの時代を引きずって今までの時代を終わらせた。

    だからどんな未来を希求するかは大事な要素である。
    なぜならその希求する未来が勝ち負けを決定するからだ。

    だからこそ未来の創造に向けた日頃の活動こそ
    大事なのである。



  29. 補足 : 「他人のつきあい方 」
  30. 私自身そんなに自信があって生きているわけではない。
    だから他人はなるべく尊重する。
    その割には全面的に他人が信用出来ない面があるから
    その部分を棚上げして
    自分なりに正義の解を求めようとする。
    そういう他人との微妙なバランスで生きているのである。
    だから自分や誰かがすべて正しいとは思っていない。
    孔子のような先生ほど私には自信が無いし誇りもない。
    ただ非力な自分が正義の解を求めて生きている。
    だから私が何とも言いようのない場合、他人を尊重し保留する。

    全面的な信用なんてこの世には存在しない。
    その中で他人とつきあっているのである。
    理想を言った所で現実に合わなければ空論なのである。
    空論ならば理想を言われた方は酷なだけである。
    だから他人に言える事は私が最善を尽くす今の現状だけである。
    それも全面的な信用とは程遠い。
    だから他人とのつきあい方からして
    私には孔子のような生き方が出来ない。

    私にとって他人のつきあい方は
    尊重と保留と独歩なのである。



今そこにある闘志
今のところ、私が闘志を燃やす事は 私のような人間を増やさない事だけである。 私みたいになってはいけない。人間はもっと王道を進むべきなのだ。 悩みぬく根源的テーマに向かって突き進むべきなのだ。 私にはそんな力が無かった。 耐えられる環境に無かった。 だから他人にはもっとタフでもっと王道でもっと成長をしてもらいたい。 それが私の正真正銘の本音である。 悩みぬき必ず王道を進めば光が見えてくる私はそう信じている。 その裏には真正面から何でも経験してみるという事である。 人間の一生は時間が限られているのだから 一人の人間の経験には限度がある。 おのれの限度を知りつつ大局的な自分の王道とは何か考える必要がある。 人間には何かと真正面から向き合って解決する力がある事を信じたい。 だからこそ私のようになってはいけないのである。
現在と未来
私の生き方は現状をふまえて行動している。 到底未来の自分を想像して目指していく生き方では無い。 ありあわせの今のために出来る事をこつこつやるだけである。 あんまり子供の時からあんな人間になろうとか思わないたちである。 でも伝記は好きだった。 面白い人生は歩みたいがあんまり未来志向的な発想はあまりしない。 期待もしない。 あんまり私みたいな人間が活躍しない世の中の方が健全じゃあないかと思う。 だから我が仕事を全部やり通す必要あるのかわからない。 他人のために仕事は残す必要あるのではないかそう思う。 修士論文もわざと詳しく書かなかった。 後輩に仕事を残そうそう思った。 今も他人のために仕事を残す必要があるように私はそう思っている。
可と不可のオンパレード
教養のパソコン実習はタイピングテストで不可 教養の社会学はテストで真っ向から反論して可 教養の哲学は理解出来ず不可 かけ算で挫折して一人で学習するようになる。 私の場合学習とはマイナスからの始まりなのである。 マイナス無くして学習無し。 今でも理解出来ない分野だからこそ 学習するのかもしれない。 もしかしたら私が理解出来るから他人も理解出来るのかもしれない。 私は超人的に理解出来ないけど手段と方法を求めて理解したいと求めている。 ある意味どこまでも異端児である。
社会学の疑問
私は大学の教養でやった社会学が理想論過ぎて受け入れられなかった。 テストで反論したら可だった。 今もそういう心境である。 だから私の社会学は普通に逸脱しているのかもしれない。 そんな自分が社会をかえれるのか疑問だけど 私は天に誓って私の闘争と誠意を示したいそう思っている。 だけど理想を掲げるような状況にあるというような社会が存在しているからとも言えるかもしれない。 あんまり喜ばしい社会とは言えないかもしれない。 だからそういう社会から脱却しなければいけない。 どこの大学に行ってもそういう悪循環を感じない個人主義が幅を利かした所で 世の中は良くならないそう思う。 世の中を知るとは いろいろな他人と自分の調和を保つそう言う事だろうと思う。
病気と救済
精神病だから殺人を犯すみたいな話はやっぱり偏見である。 あんまり病気を知らなさ過ぎる。 大概、精神科の病人は弱者である。仕事も出来ない人が多い。 鴨長明みたいに「南無阿弥陀仏」を三回唱えたくなる心境の人が大半で 強権的な個人主義を唱える人は少ないと思う。 だから私の知る限り大半はお互いを支えあう事で懸命である。 弱いからそんなに元気な病人ではない。 だけど私が鴨長明が病気だったと思うのは 弱さと葛藤に対して 鴨長明の執筆に向かう心理が 私には何となく理解出来るような気がしたのである。 そう言う意味で私も弱者であるかもしれない。 だけどこんなに理想に反逆するのは それでは生きていけない。そう感じるからである。 私にとって実践出来ない理想はいらないのである。 食べる事にさえ喜ばない理想なんて屁である。 私は食べる事には純粋に喜びたい。 寝る事に純粋に喜びたい。 本を読む事に純粋に喜びたい。 あらゆる喜びをシンプルにわかちあえる、そういう創造をしたいのである。 だからそんな喜びを否定する理論なんか私は信じない。 私たちには何かしらの喜びを持つ方法があるはずだと信じて疑わない。 それが私たちの救済では無いかそう思うのである。
教師を理解出来ない所
理想に囲まれ過ぎて 自我が持てない生徒を見て教育がおかしいと思わない所が理解できない。 今ある環境下で現状を打破する行動力が必要なのに 理想に囲まれすぎて、自我を持てず、おとなしくしているなんて私には問題外だ。 あえて、いろいろな経験する行動力の方がよっぽど大切だと私は思うのに おとなしくして世の中の何かが改善される気がしない。 悲しい事にそんな自我の持てない生徒ほど将来の可能性は感じないけど 賢い気がするだけにかわいそうな気さえする。 結局一人の人間が行動して経験を積み重ねるってどういう事か 教師自身が身を持って示した方がいいんじゃないかと思う。
教師を理解出来ない所2
たくましい健やかな子供たちが 教師の素直じゃないヒネクレタ考えを聞いて 子供たちは論理的かつ合理的なコンセンサスを持てるのか不安である。 やっぱり子供たちは最も先生に影響されやすい。 私ただ一人抵抗しても子供たちは先生の味方になるだろう。 それこそ私の中学生時代の再現である。 ある人は理想に燃える。 ある人は現実的になる。 ある人は自分の損得考えれば自分の先生の言うことに従った方が得という事もある。 ある人は理論的に正しいとか間違っているとかより 自分のおかれた状況は個々で違うため、それぞれ打算がはたらく。 結果的に理論なんかどうでもよくなる。 だから私だけでは、子供たちの論理的かつ合理的なコンセンサスを得るのは難しい。 けれど世の中、ある対象に対して 他人と自分が論理的かつ合理的なコンセンサスを持つ事は大切なはずである。 だからこそ私の学生時代を振り返ると教育に不安を覚えるのである。
実現力と勉強
どこもどいつも くだらない事言ってる。 お前の高学歴で何が実現したんだ。 お前の低学歴で何が実現出来るんだ。 これでは 結局みんなやっている事は同じだ。 自分の実現性を追及するために勉強するものを 全く関係ない勉強を繰り返している。 何かを実現するために何が必要か 日頃考えていない証拠である。 低学歴も高学歴も いくら勉強が好きだからと言って 自分が何のために勉強しているかも答えられない 勉強なんて意味がない。 世界地図と日本地図が読めないと何が不都合なのか 目的地にたどり着けないからか? 相対的に方向が把握できるからか? 地域の話が認識できないからか? みんな問題意識がそれぞれだから 地図を読めなくてもいいと選択するのもありだろう。 結局どこにいても自分がしたい事を考えて 自分の勉強する事考えていかないと 目的は達せられない。 そんな当たり前な話を出来ない先生ばかりで 本当に困った世の中である。
無我と瞑想
無我って自我が無いとは違うみたい。
無我とは執着しない心のようである。
理想にこだわるのも無我ではないし
自我を持つ事にこだわるのもの無我ではないし
自我が無いのをこだわるもの無我でないようだ。

瞑想は
呼吸などのある一点に集中したり
意識していろいろな自分の動作や物事に気づこうとする方法など
いろいろな方法があるようである。
人間は思念から行動を起こすから
思念を整えようとするために瞑想が出来てきたようである。
自分の思考が感性によって整えられたら目的は達せられるのかもしれない。
小学低学年の喧嘩
私が悪い喧嘩を 非難されてしばらく引き受けてたえる事が小学低学年にあった。 そんな事がもしかしたらやってくる自己責任を感じて生きている。 私が正しいと思っても他人が批判する事を いとわない覚悟で自分の可能性を追求する気持ちが 何とも言えぬあの頃の深い悲しみに包まれる。 人間は可能性を追求する程 悲哀に満ちた感情を持ちうるもののような気がする。 プラスになるどころかマイナスだってありうる人生の中で ポジティブだけでは生きていけない。 すべてを引き受ける悲哀こそ人間の可能性を追求する姿な気がする。
自然現象の複雑さから感じるもの
私がいろいろ述べれば述べる程問題は複雑になっている気がする。 法則は明快でも自然現象は複雑なのである。 人間の心も愛も世の中も自然現象だから複雑である。 それが理解出来ないなら その複雑さを経験した方が良いのではないかと私は思うのだが 教育関係者は15%ぐらいの大人と残りの子どもで良いという判断基準が 私には理解できない。 私は本当にエンジョイしたければ15%の大人に入りたいそう感じるからだ。 ある意味そういう複雑な世界で何かを形成して他人と合意出来る方が エンジョイできると思う。 15%の大人と残りの子どもの長所と短所または人生観や世界観をもっと明確に 提示出来なければ誰も満足しないのではないかそう私は思う。
私は日本人が大キライ
なぜかというとエライ人や賢い人がエライ事や賢い事をしないからである。 さらに、他人の教育環境を知らないで自分はエライとか賢いとか思っている所が 気にくわないのである。 日本の世の中が公平な教育だと思えない以上、 エライ人や賢い人はなおさら、エライ事や賢い事をしなきゃあいけないのに お粗末な日本にうんざりしている。 すっきりした気分で何かをするそんな心境には程遠い。 私はもっと見晴らしのよい場所で生活したい。 それはエライ事や賢い事をぬきにした生活である。 ところが日本にいるとエライ事や賢い事から逃れられないのである。 公平さのかけた日本と日本のエライ人や賢い人のせいである。 今のところ私も日本人だから、しょうがなくつきあっている
落ちこぼれ
我が小学校は勉強に熱心でなかった。京都や神戸から落ちこぼれがやってきて その落ちこぼれの人は我が小学校で普通にやっていた。 けれど我が小学校にも落ちこぼれがいた。 結局、いくら反復練習しても勉強のできない人が存在するのである。 そんな人が勉強するより人の役に立つ事を覚える方が大切な気がする。 ましてや私と落ちこぼれが一緒に勉強するなんて不可能に近いと私は思うのだが 先生は本気だった。生きてれば何かいろいろな人とバランスをとる必要あるけれど いろいろな人に向かって勉強だけを取り上げても幸せになれないと私は思う。 勉強で人の幸せをはかるより 自分が実現した事に満足する社会の方が大事だと思う。 勉強しても何かが実現しなければ意味が無い。 何で世の中勉強にこだわるのか私には理解できない。 確かに自然やら世の中を理解しようと思えば勉強は大事だけど 勉強だけが目的なんてナンセンスだと私はそう思う。 どうして勉強だけが目的になるのか教えて欲しいほどである。
蜂が蜂を襲い鳥が鳥を襲う。
蜂が蜂を襲い鳥が鳥を襲う。ならば 戦争のような人間が人間を襲うのも仕方ないのかもと感じた。 私自身自由な平和ボケで戦争自体くだらなくあほらしいとは思うが そう思えない苦境にあればそういった食物連鎖のようなつながりがはっきりして 人間が戦争を止めない原因の一つなのではないかと思ったりした。 何のためにこの地球に生物がいるのだろう。 この地球と食物連鎖のつながりはこの地球に何を意味するのだろう。 そういった問いが人間の戦争にもつながってくるそんな気がした。
大事にしたい人
この世に本当に大事にしたい人がいるかいないかは重要な要素だと思う。 私の場合この人の心を大事にしたいと思った事がある。 そういう機会が世の中に存在したら 他人を少しでも尊重できるのではないかそう思う。 だから、この世に大事にしたい人を見つけられたら 人間の人生として大成功だと本気で思う。 たとえ自分の子供でも孫でも同じ事だと思う。 さらに大事にしたいそういう気持ちが多くの人に持てたら なおさら多く人を大事にする自分の行動とともに 自分の人生を肯定できる。そう私は思うのである。
我が半生 (2009/05/15)
私の子供時代、私は親父のようにサラリーマンになれれば良いと思っていた。 科学者になろうとか医者になろうとか弁護士になろうとか思わなかった。 自分のやる事をやって人生を謳歌できれば良いと思っていた。 自分にとって自分の人生を謳歌する夢を持ちたいと子供ながらそう漠然と思っていた。 大学まで自分にとって物理、宇宙と興味はそっちの方に進んだが 宇宙物理そのものが幻聴と重なり 現実との境界がはっきりしなくなった激しい苦痛とともに 競争激しい大学に残っても人生を謳歌できる気がしなかった。 そして大学を去ってから10年ぐらいたって今に(2009/05/10)至る。 大学にいるより苦痛は少ないが今でも今まで自分のやった事って何かしらと悩む。 そして今まで自分が苦しんだ大部分は 自分の生活環境が悪かったためじゃあないかと思ったりする。 もしかしたら悩んだ分いろいろな事を考えられたのかもしれない。 それでも今の関心は子供の頃と同じ 人生を謳歌する夢をいくつか持ちたいである。
科学と私
ここ十年(2009/05/17)科学とは何か考える事が 唯一科学について私の出来る事だったような気がする。 科学の局所的な部分がおかしいと思いつつ逆に科学って何だろうと思いめぐらした。 図書館で本を借りて科学の一般書やらヨーロッパの歴史書やらアメリカの歴史書やら ルネサンスに影響した地中海の歴史書やら読んだ。 本当は人生の順序としては逆だったかもしれない。 だけど私の学校教育には存在しない知識だった。 結果的に私に勇気と希望を与えてくれた。 だから多くの人が科学とは何かを発見して 人々の活動において将来に勇気と希望が持てる事を願っている。
お互いに良い影響のある関係
誰に対しても、お互い良い影響のある関係でいたい。 そう思うのだが、なかなかそういう世の中には程遠い。 自分の主張をしなければ生きていけない。そういう世の中に私には見える。 職場では自分の主張より職務を遂行する事に重点を置いている。 だから自分の主張をしなくて良い環境に感謝している。 けれど仕事以外の自分のストレスはホームページで主張しなければ 自分の苦労が水の泡になってしまいそうで 最終手段である。自分の行動より自分の主張しか手段がなくなったら 良い世の中と言えるだろうか私には末期的に見える。 私の人生の中で自分の小学校が悪く見えるのに他人は良く見える現象もあった。 そんな現象が起こっているのだろうかお互い良い影響があれば 主張なんてしなくてすむ。なぜなら当たり前な事が共有されているからだと思う。 そうすれば当たり前な事を模索するだけで話は解決する。 けれど世の中に当たり前な事がたくさんあるように見えない。 結局、他人の主張を聞くのも疲れるが 私が主張し続けるのも疲れるのである。
他人と自分の幸せ
今まで(2009/1/19)この世の中がゆがんでいるようにしかみえなかった。 結局自分の幸せを考えたら自分でどうにかするしかなかった。 だから、ただ待っていれば幸せになる気がしない。 自分でいろいろな経験をしなきゃあわからない事もあるように思う。 科学というものを少し知って 現在も用いられる何割か正しい真実という古い理論を考えれば 過去も現在も未来も肯定できる気がした。 過去も現在も未来も肯定できるくらいの幸せをつかむ域に達するには この世の中で待っててやってくるだろうか? 私には今のところ(2009/1/19)そんな世の中に見えない。 結局自分の頭で自分の幸せを実現するしかないように思える。 なぜなら今まで(2009/1/19)私自身が自分の中の真実を主張し続けたからである。 それは私の幸せのためではあるが、他人の幸せになるのかは自信がない。 だから私にはただ待っていれば幸せになる根拠がみいだせない。
実現可能性を広げる教育の公平さ
ただ勉強しろと言っても勉強するかしらと私は思う。 勉強するには実現したい大義名分が必要だと思う。 私が高校生時代はエネルギー問題を解決したかった。 大学生時代は自分の大学浪人時代に考えたエネルギーの問題から派生して 物理の根本的な見直しが必要な気がした問題と 高度な数学に難易度を感じコンピュータを使った研究を求めた。 こんな感じで大学で何をしたいかという大義名分がないから 勉強しないのではないかテスト勉強する問題以前のような気がする。 自分が何を実現したいかそういう大義名分が必要な気がする。 だから私には個人の実現可能性を広げる教育現場が 公平に与えられるべきだと私はそう思う。
我が少子化観
私には少子化が経済的な問題にしかうつらない。 多分我が子が出来ればたくさんの経験をして欲しいから 様々な習い事に行かせたいし勉強にも興味を持ってもらいたい。 現状(2009/09/18)ではそれだけの投資が出来るのか少し不安である。 今の所一人でいれば問題ないが 家族となるとまとまった経済力が必要である。 だから先行きは暗い。 私には同じような思いを持っている人がたくさんいる気がする。 本当はいろいろな経験を学校で得られればいいのだが そんな世間ではない。 私は習い事もしたし、塾にも通った。 やっぱりそういう友達に会って 学校と違う厳しい現実感を感じた。 なんて言うかみんなで丸くなれるような生易しさと正反対だった。 子供がそういう厳しさと優しさとたくましさを知るには 我が現実(2009/09/18)には経済的に程遠い世の中なのである。
「街場の教育論」 (著)内田 樹
様々な事が書かれていて参考になった。 貧しければ特に仲間で部屋や食料や服やら助け合ってシェアすべき という指摘には私には思いつかない発想だった。 自分の事で精一杯で他人とシェアする機会があまりない。 他人に対して出来る事と言えば 自分の事をホームページにするぐらいである。 本の中で気になった事は 私自身、子供が行動している時に 一緒になって試行錯誤できるような案が 時間をかけてたくさん持てるかが 子供の成長のカギだと私は思うので 子供が行動している時に いろいろ案が生まれるアドバイスは必要である。 それ以外の内容は参考にもなり結構楽しく読めた。
「日本辺境論」 (著)内田 樹
別世界や他者に対して遅れてやってくるに固執するあまり 別世界や他者が持つリソースしか語ってない極論に聞こえた。 この世に無い物をこの日本でもたくさん生み出している。 歌舞伎やら写楽やら他にも科学だってそうである。 この世に無い物が自分が実現したい心の中に こつぜんと生み出されるには別世界や他者より自分が作り出す自分の世界に依存する。 そうやって一日一日自分と向き合う心が 創造を生み出すとしたらそれが一生懸命なので 別世界や他者にも向き合ってもあまり何かに固執する事がなくなる気がする。
我が幼年期とアイデア
我が幼年期を振り返ると する事がなくてレコードと本で童話に接する事が多かった。 そのため我が幼年期は空想する少年だったような気がする。 もう少し算数に興味を持っても良かったと我ながら思うのだが どれだけ自分の想像力をとるかどれだけ算数をとるかといった話になりそうな気もする。 それだけ空想癖があるだけにあんまり現実的な見方をしなかったような気がする。 どちらかというと現実的な見方より自分の感性の方が興味があったという事だろう。 そんな経験があるだけに今日、「橋本治と内田樹」を読んでいたら 私のホームページから童話が作れないかと思ってしまった。 私には童話が作れないと思っているけど、 誰かに頼めば結構すじのある童話ができるのではないかと思ったんだけど どうでしょう?どうしても無理かな。
我が世界は現実とは別世界
我が世界は現実と頻繁に対話している。 けれど我が世界は現実とは離れた別世界である。 つまり一歩引いて謙虚で自由な我が世界である。 そんな我が世界があるような気がしている。 集中するとそんな我が世界の中で考えているような気がしてくる。 そんな我が世界にいる私自身が好きなのである。 だから、出来るだけ我が世界にいたいと思ってしまう。 その点で他人とのつながりが欠点かもしれない。
過度に誰かに依存しない自分の世界を自分一人で真面目に信じる
今(2009/11/09)私に残された信仰は現実と自分の世界の対話をしつつ 孤独の中で一歩引いた謙虚で自由な現実とは別世界の自分の世界を 自分一人で真面目に信じる事である。 自分が何かを為すのに 誰にも頼らない、誰の責任にもしない、誰にも求めないためには 自分自身ではなく現実に数歩離れた間接的な現実と別の自分の世界を 自分一人で真面目に信じるしかない。 そして自分の感性と自分の思いと現実を 自分の世界の中で形成していければ、誰にも左右されないのである。 また自分の世界は存在するものではなく作り上げるものである。 だから自分の世界のために創造する必要があるのである。
自分の中に無い真意もしくは真実は遅れて認識する。
私の場合、受け答えのバリエーションでその場で反応出来るが 私の中に無い本当の真意や真実の理解は遅れて認識するような気がする。 ただその認識が宗教として成り立つのか私には良くわからない。 たとえそれが真実だとしても 私がその認識がなくても不都合を感じないからである。 本当の真意や真実に至れば私はまたそれに対応しようとするからだと思う。 また即断せず他人にある程度、配慮できるとしても いくらでも他に補正する機会はある気がする。 今日の私と明日の私が同じなら 遅れて認識する私も私である。そういう私に今の所不都合を感じないのである。 けれど他人に対してそれがをどのような意味持つのか興味のあるところである。
「白い巨塔」 (著)山崎豊子
結末はミイラ取りがミイラである。 皆の心が別々の所で展開されて あまり良い感じがしなかった。 自分の心を大事にして自分の心を育む。 それが人間にとって根本的に一番大事な事だと思う。 どんな心で医者として働くべきなのか どんな心で患者として望むべきなのか そういう問いが最後まで出来る人が世の中に必要な気がする。 同時に私自身今もって自分の心を理解してくれる人がいない。 つまり「白い巨塔」が皆の心が別々の所で展開されているように 私にとって今の世の中をあらわしている気がした。
「数学の歴史」(著)加藤文元
著者の言う「見る」という感性と直感が 我々人間にはどこまで通じるのか考えさせられた。 私は数学そのものの感性や直感はないと思うが 物理的なまたは社会の経験的な感性と直感を養ってきた。 だから現実を見つめる感性と直感がある人ない人では 自然の摂理のようにトンチンカンのまま 勉強が出来てもどこまでもハードルの高い差が生まれる。 だから人間の感性と直感について 我々人間はどこまで信用して良いのか疑問に思った。 我々の感性と直感が十人十色だとしても 自然と現実は一つという事の方が比較的多い。 十人十色どころか世の中結構厳しい。そう私には見えるのである。
「精神分析入門」を読む(著)鈴木 晶
私の知らない私の無意識と言う物があるのか不思議な気がした。 私の場合意識的に何かが表面上にあらわれそうになると 何かが思いつく前触れみたいに体全体が反応する。 無意識に苦しむと言うより無意識に助けられる。 つまり無意識が私に信号を送る気がする。 その信号が私の知らない無意識だとしても あまり抑圧や葛藤やストレスになっていない。 むしろ貴重な情報源である。 私の人生はどうなるのかわからないけれど 今の自分を進めていく手段と方法を マイナーチェンジを繰り返し日々模索出来れば 無意識に対しても日々手段と方法を見いだせる気がする。
知の教科書 ユング(編)山中康裕
知の教科書 フロイト=ラカン(編)立木康介,新宮一成
上の二冊を読んだ。難しい本だった。 意識上では考えるのをやめたり進めたり出来るけど 無意識上では私自身どんな事を感じているのか想像出来ない。 だだ無意識上で考える事が心のすべてとも思えない。 今日一日行動しながらまたは意識上のコンプレックスから 自分のスタンスを見極め方向性のある行動を起こす事で 毎日心はたえず変化する。 行動が変化すると心が変化する。 心が変化すると行動が変化する。 そんな創意工夫の繰り返しを続けている気がする。 私は精神分析の専門家ではないので家族や女性や他の男性が 何を考えているのかわからない。 なので私の場合の事しかどうしてもわからない。 だからユングとフロイト=ラカンの話は余計難問だった。 私自身の心がそんなに難問な気がしないのが裏腹に 他人の心は難問な気がするのは私だけではないかもしれない。
「批評理論入門」 (著)廣野 由美子
これから少し問題のある感想を述べる。 この本は女性の書いた「フランケンシュタイン」の本を使って 小説技法と批評理論を展開している。 すべての小説技法と批評理論を「フランケンシュタイン」の本に 適用して解説を加えている。 あまりの見事さに世の中の全ては 母なる大地である女性に すべて還元されるのではないかと思ってしまった。 時折感情的になる彼女を 横目に冷徹な彼氏が 最終的に納得させるのが 人間活動の最終目標かもしれない。 女性から批判があるかもしれないが この本を読んでそんな気がなんとなくしたのである。
数学と科学
自分の感性が数学と科学に使えれば
即効性のある学問だろうと思う。
ただし理論の善悪がハッキリしてしまう分明暗もハッキリする。
だけど善悪によりインプットとアウトプットを繰り返せるので
本人の能力がアップするような気がする。
だから若いうちから数学と科学をやる事は自分のためになる。
自分の能力を試したい野心のある方は
個人的には数学と科学をすすめる。
文学と英語
私は理系なので文系の事は良く知らない。
だけど文学と英語はある程度時間が必要なのではないかと思う。
オーバーに言えば人生の末期に必要なもののように思う。
つまり今現在何も他に残すものがない状態になった時にこそ
文学と英語が有効に発揮されるのではないかそう思う。
他にやる事があれば文学と英語は程々で良いが
何もなければこんなに武器になるものもない気がする。
要するに文学と英語が最後の砦になれれば
文学と英語の役目を果たしていると思う。
いろいろな意味でチェンジするには
時々私の感じる真実に突き詰めてみたい衝動にかられる。 今の科学にだまされている気になったり、 テストが出来る事が賢い気がしなかったり、 他人の感じる真実が真実ではない気がしたり、 本当の真実はどこにあるのか突き詰めたい衝動が 自分自身の中に生まれない限りいろいろな意味で改善しないだろう。 今ある知識さえ正しいと思えなくても、今ある知識に挑戦するたくましさこそ いろいろな意味でチェンジする可能性が生まれると私はそう思う。 結局、こだわりの部分で現状そのものの納得や満足より 相反する今ある知識の挑戦と今ある知識への否定こそが いろいろな意味でチェンジする核になるとそう私は思っている。
私の性格
私の基本線は大胆に真正面からぶつかってチャレンジするが そのチャレンジに実現性があるか問うことが多い。 理想や現実も大事だが実現性も大事な部分である。 なので私は実現不可能と思ったら理想も現実も捨ててしまう人間なのである。 また他人の実現性はわからないが私の実現性は嗅覚で行動できる。 だから私はリーダーシップというものがあまり好きではない。 そういう意味では技術者の部類に入るのかもしれない。 そんな自分を好きではない人もいる気がする。 だって理想もしくは現実の方が大切だと思う人が世の中にたくさんいるからである。 そんな理想もしくは現実が大切な人に 今現在の論理的もしくは合理的コンセンサスを求めても難しいようである。 また私は実現性に神経質でもある。 確実に実現するまで石橋をたたいて渡ろうとする傾向がある。 嗅覚で正しいと思っても、他人に対し断定しないし説得もしない。 私が実現しないと感じるものは説明のしようがない。 また自分のやる事がすべて実現するとは思ってない。 結局、我が実現性の嗅覚は毎日の生活によって実現に近づくと思える程度である。 このように真剣に私の実現性を考えると、どことなく頼りなくなってしまうのである。
市場のニーズと教育の質
基礎研究しても何が役に立つかなんてわからない中で研究しているのが実情だが それなりの賞をもらう時、 自分の達成感だけでは賞をもらう気にならないじゃあないかと思う。 過去の人や他人へのつながり、世の中へのつながり、研究内容の歴史へのつながり、 そういうものが自分の業績として意識できなければ 自分が賞をもらおうと思えないそんな気がする。 だから、今の所、何が役に立つかわからなくて仕事をしても 最終的に自分の業績が役に立ってる指標として市場のニーズに照らし合わせても 全然おかしくない気がする。 もし今の所、市場のニーズと教育の質に相関がないなら 市場のニーズも教育の質も成熟していない。 我々が知らない知識が埋もれているそんな気が私にはする。 どうせ市場のニーズにはみんな正直だから、なおさら 市場のニーズと教育の質に相関がない事に不思議に思い 何かがある気がするのだ。
勉強の利得について
私の大学浪人時代の英語の偏差値は50を下回っていた。 幻聴のため英単語を覚える気力がなかった。 結局、暗記できずセンター試験も全国平均点ぐらいで現役より20点ぐらい下がり 数学と物理で大学に入学した。 そんな私が大学時代に言い聞かせたことは 偏差値50あればチャンスがあるという事だった。 他人がそんな高い偏差値を持ててもそこにたいした意味なんてなく 偏差値50もあればチャンスはみんな同じだそう思ったのである。 自分が何かを発想できる力は 様々な経験と 基礎知識として偏差値50で勉強し続ける先に見えるものだと 私は信じて疑わない。 もう一度繰り返す。私の英語力は偏差値50以下である。 偏差値50以上の他人が私と何か違うことができると私には思えない。 どうせどんぐりの背比べである。 そんな事より 偏差値50ぐらいの人がチャンスがあると思える事の方が大切である。 発想なんて勉強だけではできない。 様々な経験をしないと無理である。 だから偏差値50で耐え抜いてあきらめないために勉強の利得とは何かを純粋に おのおの個人が真剣に考える必要があると私は思う。 私自身、どう勉強すればいいか今も試行錯誤の連続である。
たくさんの誰かのための高校と大学(20120516)
血税で高校や大学があるのを認識すべき。 無駄な税金にならないように 仕事が出来る人間を育てるべき。 もう少し血税使っている使命感があってもいい。 なんだか温室育ちな気もする。 自分だけで世の中は成り立たない。 大勢の人を背負って立たなくて 何が是になるのか私には理解出来ない。 何だか大志が無い。 そこに勉強しない理由があるのではないか? もう私は若くない そろそろ世代交代したい。 ニエタギル若いパワーが必要である。
イノベーター(20120517)
私ってイノベーターではないかのかよくわからない。 科学的にもビジネス的にも社会的にも こんなに革新的な私は歴史上にも存在しないのではないかそう思っている。 あんまり私のした事を列挙すると 大きな話になってしまうぐらいにとてつもなくなってしまうので やめる。 本当の革新やイノベーターは 勉強してこそ起きると思う。 勉強しないで起こる革新やイノベーターは やはり効果が小さい。 哲学と芸術は勉強の賜物ではないかそう思うからである。 学生が勉強しないのは使命感が無いからである。 私が学生にアドバイスする事は なんでも清水の舞台に飛び降りる気持ちで 何回失敗してでも経験してみる事である。 その失敗も経験しないで成功なんてあり得ない。 失敗する事で慎重にもなるし将来の対処に備えるようになるのである。 成功ばかりしたってそんな経験は役に立つとは限らない。 自分を大切にするあまり経験が足らない事にもなりかねない事を肝に銘ずるべきである。
知とは何かを知る機会を増やす必要性
勉強に従事して、または仕事に従事して、または研究に従事して、 科学とは何か、自分と他人の愛は何か、社会は何かという事を 多くの人が知る機会を増やす必要がある。 それには何かに従事して自分で見つけ出そうとする行動が大切なのである。 この世にそういった機会が増える事を願ってやまない。 この私が願う事は 知りたいものを求めて自分自身で発見し知る機会が多くの人におとずれる事である。 本当に知るとはどういう事なのか多くの人が経験すれば それが将来の科学のため、将来の人々のため、将来の社会のためになると信じている。
教養
学校の教養を学ぶ良い所は 世の中に何があって何がないかわかる所である。 しかも各分野を見渡しても自分自身が楽しんで満足するものを なかなか見つけることが難しいという事実である。 楽しんで満足できる自分の興味あった物理の方が性に合ってる事も再認識する。 だけど与えられた自分の時間を考えれば今の私は物理をやるには無謀である。 だから自分の専門以外で自分の楽しんで満足するものを見つけ追求していきたい。 当然専門以外なので専門的な追求でない事は承知している。 だけど私ほど自分が楽しんで満足して追求している人間はそんなに多くないと 学校の教養を学んでそう思い込んでいる。
私にとって大事にすべきもの
私にとって大事にすべきものが商品購入のスキームでないというなら 私には理解できる。 私にとって大事にしたいものは採算性のとれない事ばかりだ。 他人に迷惑でなければ自分が無駄な事をやっているかもしれなくても あえて大事にすべきもののために突き進もうとするだろう。 そういう意気込みを持って生活しているのは確かである。 ただ大事にすべきものを探索し発見する過程は 学力だけでなく国防とかいろいろな事に派生しそうな気がする。 なおさら簡単にハイそうですかとはならないから 常日頃から採算性の無い地道な積み重ねが必要な気がする。
日本にとって大事にすべきもの
結局国防だって教育だって 日本にとって大事にすべきものが主張できないから 他国に理解されないと思う。 軍備を増強しても、勉強時間を増やしても 日本にとって大事にすべきものこそなければ成り立たないそんな主張こそ大事である。 日本にとって大事にすべきものがなければ 国防も教育も意味が無い。 なのに自分たちの日本を良く理解していない。 無駄な時間をとって受験勉強をさせない公立学校とか受験勉強に熱心な学校とか 自分の学力と自分のまわりが見えていない。 国防だって同じだ。 日本は良い国だという。だけどどこが良い国かハッキリ言えない。 ここが良いとハッキリ言えれば日本の守るべきものが見えるはずである。 もう少し身のまわりの日本を見つめて自分を認識する必要があるように思う。 そういう事が出来る人の話なら他国の人も自国の人も話が聞ける気がする。
終戦記念日と平和
守られている日本から 守らなければいけない日本だとあらゆるリストアップが出来なければ 結局守られている日本のままで終始する。 何が今の平和の中で大事な部分なのか探さなければいけない。 誰が守る守らないが大事なのではない。 守られている自分を否定しても肯定しても何も起こらない。 守られている今の日本や今の自分が 大事にしたい一つ一つが日本を平和にする私はそう思う。 果たして大道として日本を大事にしたいと思える人が 官僚やら政治家やら教育者やらにどれくらいいるのか 心配になってくるのである。
信長について
本能寺で信長が亡くなったのはやっぱり信長の意思のような気がする。 やりたい事やりつくして戦を繰り返し 万感の思いだったのだろう。後はなるようになれ!!と達成感のかたまりだったに違いない。 惰性のように生きてれば、また生きる希望も生まれたに違いない。 後世に希望を与えるような後世の事まで考える時代ではなかったに違いない。 しかも太平の世を秀吉にまかせようとした信長のスケールははかりしれない。 だけど秀吉が信長の考えたような政治をしたかは後の歴史を見れば否定的だろう。 信長には家康というオプションまであったかのようだ。 信長の信念は全うしたが非常に疲れた時の全てをやりつくした達成感は 確かにその後はどうでも良くなる。 だらだらと過ごす平和な今日には理解出来ない事だ。 幸いに私は平和な今日に生まれ、惰性に生きる事も学んでいる。 だからあんまり忙しい人生も考えものである。 だらだら生きてまた再び新しい生きる希望も生まれるものだと私は思っているし それが平和のいい所でもあるし、ある意味なまぬるい所でもあると思っている。
たくさんの秀吉
秀吉一人では世の中変わらなかったけど 秀吉みたいな人がいっぱい出てくればフランス革命みたいになったんだろうと思う。 今求められているのは、秀吉みたいな人がいっぱい出てくる事でないか?そう思ったりする。 この世の閉塞感が ある人達から新しい人達の到来に期待するのは当然の事のような気がする。
実現力と精神と学力
みんな個々の実現力と精神と学力はいろいろである。 どうして同じように扱う必要があるのだろう。 私は同じように扱ってこれ以上不幸になる人を見たくない。 どうして自分の個性を持って幸せを感じエンジョイさせないのか私には理解できない。 個性が違うのだから幸せに感じることもエンジョイする事も違うはずだと私は思う。 なのになぜ同じにする必要があるのか不思議でならない。 自分の持つ実現力と精神と学力で幸せを感じエンジョイできる事のほうが よほど大切なはずである。 だから自分の持つ実現力と精神と学力を持って たくさんの幸せとエンジョイを見つけていければ良い。 他人の幸せとエンジョイだって様々である。 つまり、ざっくばらんに言うと 代数方程式がやりたくない仕事のために勉強する人達と 化学や物理や経済で代数方程式を使う人達がなんで 幸せとエンジョイが同じになれるのか 私にはチンプンカンプンです。
我が実務経験
私の場合、大学で学んだ事を消化するまで時間がかった。 大学では消化不良起こしてもたくさんの知識を知るべきだと思う。 それに他人の入学したい大学なんて大半がたいしてかわらない気がする。 新しい大学つくっても既存の大学の方が人気がある気がする。 それを壊すのは 何を学びたいか自分が見つけるしかない気がする。 世の中私はこれを学びたいと思う人は結構たくさんいると思う。 学んだたくさんの知識をいかせるには、試行錯誤の連続しかない。 試行錯誤出来る機会があれば時間とともに消化される。 お金も大事。知的欲求も大事、試行錯誤も大事。 エンジョイ出来ればそれで良いのではないかと私はそう思います。 お金もなくて知的欲求もなくて試行錯誤もなくてエンジョイできる気がしません。
悪ふざけ_2007/12/30
ミスタードーナッツでアイスコーヒーとドーナッツ1個を注文し本を読みながら食べたが口の中に紙が入っていたのに気づいた。その時チャラチャラしていた男子高校生にいたずらされたと感じた。そんな事があっても自分のする事に夢中になるぐらい一日を転がして誰かと気持ちを共有できる道を忘れてはいけない。所詮つまらない事で喜んでいるのだから敵だの味方だの飛び越えて近道は誰かと楽しめるように自分の道を謳歌すべきだと感じた。それにしてもガキで他に楽しむ事のないつまらない高校生がいるものだなとあきれた。
昼食(2009/06/09)
午前中診察日だった。 いつものように昼食を母とともにしたわけだが 蕎麦屋でまずい天ぷら定食を食った。 京都でまずい餃子を食ったのを思い出した。 これほどお互い不幸な話はないなと感じた。 おそらく文化功労者だろうと思われる店の人はにこにこしていた。 なぜなんだろうと不思議な気持ちになった。 世の中には不思議な事がいっぱいあるものだとあらためて感じた。
第三者を評価する事。
この手の話は聞くだけで疲れてくる。ましてや第三者が満足してそうならなおさらである。あんまり話をする本人と接点がないのなら評価の意味はあまりなく面白がってるだけで私には不愉快な気分になる。だけどそういう話が好きな人がいるような気がする。結局そういう人は私とは話が合わないと思う。私は自分の事を一杯話したいし、話をしている相手の話も一杯聞きたい。だけど第三者の話だけで盛り上がるなんて憶測も含んで確実性もなく、とりとめのない、どうでもいいように聞こえるから、なおさら疲れるのである。
霊能力とか超能力について
ある科学者にすれば霊能力とか超能力が ある科学者のダークマターと同じものだとすれば 話がわかりやすくなるのではないでしょうかと私は思う。 要は霊能力とか超能力が 今か将来かはさておき、論理的かつ合理的に判断出来るとギリシャ人のように 考える事ができるかという所が 我々人類にとって可能性のわかれ目だと思う。 我々は世の中を論理的かつ合理的に説明出来るという野心が 世間の成功者としての必要十分条件だと認識が持てた時 その成功は過去から現在そして未来への扉となると私は思う。
過去と現在と未来
いろいろな形で 個人の知性の総量が限られても、おのおの個人が 他人に対して節度を持って 他人と異なる方向性でも構わないから 過去の知識を参考にし 現在の状況を分析し 未来に希望を持って前進させるために チャレンジする機会が必要である。 なぜなら何かしらチャレンジしなければ 人間は何も創造できないからである。 だから我々人間には 成功と失敗を繰り返しながら世代交代を繰り返しながら そういう過去と現在と未来が必要不可欠な存在だと思う。
学生時代
試験勉強はしたが 私自身そんなエリートみたいに勉強はしていない。 だけど私なりに悩みはかかえていた。 どうしたら強制されず自由な環境で勉強できるかという問題である。 高校時代、大学時代、大学院修士生時代、 悩みながら遊びまたは勉強をした。 高校時代は大人が読む小説をよく読んだ。 私はどうしたら女性と私が幸せになるんだろうとまた小説を読んで悩んだ。 そのような悩みをかかえながら友達と遊び、ストレスの発散となった。 今思えば、悩みも勉強も遊びも私の学生時代には必要だった。 「おおいに悩み、おおいに勉強し、おおいに遊ぶ。」 許容範囲いっぱいの中でどれ一つも欠けてはいけない。 今になっては、それが私の人生のあたり前な現象なのである。
大学院修士生時代
この時代は私が最もよく論理的に考える事ができた時代である。ただ私の体は落ち着きがなく他人の話を理解するにはなぜか時間が必要だった。 だからよくストレスがたまった。それでカラオケで思いっきり歌って発散した。 私の体が安定しないのに理解力もないのに なんとか修了できた。なんとなく物理が私に向いてたからのような気はしている。 結果的に論理的に考える事ができた事は私にとって大きな意義だったように思う。 確信はないが、経験値として なんとなく論理的に考える思考回路のようなものができた。 だから2年間だけだけれど 私には貴重な経験をさしてもらったと思う。 エリートって論理的思考回路の経験が たくさんあるって事なんじゃあないかと思っている。
アイデンティティー
何だか個人の独立にはアイデンティティーが必要なのだろうか? 今日一日考えていたけど解決しなかった。 生きている意味なんて考えた事がない。 例えそんな事を考えたなら 人に役に立つ事をやるだけである。 そこに生き甲斐を求めれば良い。 自分の今までの半生は肯定出来るけど これから先は肯定出来るかわからない。 ただ私としては 私の意図しない神によって生きているから生きていこう。 ただそれだけである。 アイデンティティーって必要なのかしら? 何だか自然と逆行している気もする。 我々は人間の部類で人間が絶滅しないように生きているわけで そこにある人間がアイデンティティーを持ったら それって人間の部類と特別な関係になるわけである。 生物の進化ってどのようなメカニズムなのであろう? そこにアイデンティティーと密接に関係している気が何となくする。 それぐらい、アイデンティティーを持つのは 難しい気が何となくしている。
我が半生(2012/03/17)
何だか振り返ってみて ニーチェの言うように 我が人生をもう一度生きたいと思わない。 何だか子供に そんな人生を送ってもらいたく無い。 ここまで来て もうすでに自分の人生を真剣に生きるしか 穏やかに過ごせる道が無い気がする。 出来るだけストレスの無い人生を送りたい。 それが私が第一に考える事である。 もうすでに 人生を二度繰り返したく無い人間が 子供の面倒は考えるだけ面倒である。 自分一人でも全うに生きれるだけでも一大事業そんな気分である。
私が夢中になって集中できるもの
創意工夫が出来る。自己表現できる。生産性がある。利便性がある。
知的好奇心を刺激する。生きている実感が生まれる。
将来性がある。実現性がある。
ある程度他人を気にする必要がない。ある程度他人を尊重できる。
他人と気持ちを共有できる。自分の事が考えられる。
発想の源
自分がどんな事を実現したいか それが一番の発想の源である。 私にはボーア・アインシュタイン論争の 決定論についてややアインシュタイン路線である。 どんな事をしたいか考える事で または何かに従事する事で ある程度未来は開拓出来るのではないか そんな勝手にランダムに発想が浮かぶ気がしない。 また丁寧にやる事をやらないと成功しない。 能力が無いといってやる事をやらないのは 実に情けない。 自分に出来ると思われる事を丁寧にやらなければ 何の芽も出て来ない。 だから自分に出来そうな目標を選択して やる事をやる必要がある。 だから誰にとっても 何が実現したいのか 発想の源として必要なのである。 私は変化球が投げたいとか 流し打ちしてみたいとか サッカーの翼君のようなドライブシュートがしたいとか 全日本サッカーがワールドカップで活躍して欲しいとか エネルギー源について興味を持ったり そういう夢が私の原動力である。 最近は細胞に興味を持ち始めた。 実に様々な細胞が私の中にあるらしい。 進化の過程で消滅を選択する細胞もあるらしい。 個々の細胞も少し未来を見通しているのではないかと思ったりする。 こんな風に実現したい事がある気もしたりした。 だから私にはボーアの決定論が 半信半疑である。 どんな思いもどんな期待もどんな生活も関係ないなんてあり得るのか 私の人生の中でありえないそう言っている気が何となくしている。
発想法
やりたい事や勉強や仕事の内容を明確に持てる環境にいて、その中で工夫を積み重ねる事ができるようになれる経験をする事が発想の第一歩。
問題や不可能の事象を洗い出す。問題意識を持って頭の隅に置いて生活する。
不思議に思うことについて試しに思考実験、シミュレーションまたは実験をしてみる。
ベストな発想ができる状態
冷静に何かが見通せて何かを目指そうと心がける状態こそより良いベストな発想が生まれる。だから知識を身につける時よりもその後の落ち着いた穏やかで温かい気持ちでいれる状態の時、特に家にいる時に何か発想する事が多いように思う。何気ない落ち着いた穏やかで温かい状態のせいか前向きで安定した気持ちが伴うそんな環境が夢と可能性をもたらす大事な事だと考えている。
一日の転がし方
どうやら私には楽しく物事を転がす能力があるようだ。何か一日単位で今やっている事への工夫が思いつく。失敗もあるし成功もある。私には極めて真剣に考えている事が人にとっては面白いと感じる事もあるようだ。どうして楽しく転がせるのか?スポーツや勉強などいろいろな経験をしてすべてに対し工夫してきたからぐらいしか思いつかない。一年二年三年.....と同じ事を楽しく物事を転がす能力も限りなく強い可能性を秘めていくと私自身考えている。
やってみる事と考えてみる事の反復
人間はやってみない事にはわからない事もある。 一方で考えてみる事でやる事の敷居が低くなる事がある。 だから、やってみる事と考えてみる事を反復する必要がある。 これは科学の理論と実験に近いと私は考えている。 だから私自身やってみる事と考えてみる事の反復を経験する事は 科学においても有用だと私は思う。 仮に自分自身が考えるだけであったり、やるだけであったりするならば 自分だけではどうにもならない。周りが大切なのである。 周りを含めて考えてみる事とやってみる事ができているのか状況把握すべきである。 片方だけで自己主張しても成り立たないのである。 つまり両方しないと成果がでない。 何かが出来るようになるには、 やってみる事と考えてみる事のバランス感覚が必要であると思う。
絶対の理論は存在しない
理論と実験の論理学的関係は「理論→実験」である。イコールではないのだ。だから実験が理論を証明しているという事は理論が実験を予言した見せかけにしかすぎないし実験結果が理論を証明しているとは言い切れない。イコールではないのだから「理論→実験」は理論が絶対正しいものとは言えない。だから逆に絶対のように見える所が理論の美しい所とも言える。また今信じられてる理論がある所での小さな「ずれ」が今まで歴史的に見て局所的な所で大きく数値がずれる事もありうる。この事実は、ある所で何となく正しいと思った理論がある所では大きく間違っている事もあるという事だ。だからある所で何となく正しいと思っても、異なる所ではもしかしたら全然その人は見当違いをしている可能性だってあるのである。結局、理論の模索は未来への果てのない尊ぶべき人間活動の冒険と挑戦だと思う。
抽象化する能力の必要性
自然現象や人間の気持ちまたは世の中の動き
そういったもろもろのものを抽象化する力が必要な気がする。
私が得意とする事は言葉にする事だが
その言葉を図式化出来ないか考え始める。
まあこの歳にして新たな能力が開発できる自信はあまりない。
だけど抽象化して図式化する能力こそ完全形に思える。
そういう能力を若い人に獲得してもらいたい。
そうしてその方法論を広げて欲しい。
それが出来れば成功する者がたくさん世の中に出てくるはずだ。
当事者の科学
確かに第三者の科学は科学の知識に驚く事のほうが多いのかもしれない。けれど当事者の科学とって見れば考える対象に対してどのようなアプローチをとれば何がわかるのか問われている。そこに科学の面白さの本当のエキスがあると私は思う。どのように生活し、どのように思考すれば誰も思いもつかない奇想天外なアプローチがとれるのか人間にとってこんなユニークな愉快な話はそうざらにないのではないか私はそう考える。
私のケース
ノーベル化学賞の根岸さんが天才だと思ったことありますか?
と聞かれて努力と才能は表裏一体だと言っていた。
私は時々自分の人生振り返る時、天才だと思う。
だけどどことなく肖像画のような他人事である。
自分が何かを考えるとき没頭していて自分のことは考えていない。
だけど何かを思いついたとき明らかに自分を意識している。
妥当かどうか自分の感覚が呼び出される感じがするのだ。
多分才能のある若い人はテスト本番まで勉強して
大半は自分は出来ると思ってテストを受けるだろう。
だけど人間いろいろな事をやっていると
あまり自信とかプライドとか無くても没頭できるようになる。
それは自分が無いってわけじゃあない。
どこかで実世界の自分と結びついている没頭なのである。
原因と結果の法則
原因→結果という法則の話である。 ある原因があってある結果は理解出来るけど ある結果があってある原因はわからない。 だとしたら結果をある程度求めるならば たくさんの原因を所有した方がある程度の結果は得れる事が理解出来る。 悪い原因と悪い結果だって良い原因と良い結果だって同じ。 つまりそれだけの原因を作る事にどれだけの意味があるかわかる。 悪い原因は作らず、良い原因を作る事で すべてとは言えないがある程度、それなりの理解出来る幸せを感じるものらしい。 だから自分が唯一作れる様々な原因は自分が出来る唯一の希望にするか悪夢にするか 本人次第である。
精神と原因と結果
私には精神がある。 だけどその精神は物理量ではかれない。 結局どんな精神がどういう結果を導くのか物理量でははかれない。 しかし私は工夫というものは ある精神がある結果を導くもののように思う。 やればやるほど繰り返せば繰り返すほど ある結果は必然的にならざるおえない。 だから精神が物理量ではかれない以上 計算が膨大になるというのは まだ原因と結果に結びついていないだけである。 私にはある精神がある工夫を見出しある結果が導き出せてる気がする。 その循環サイクルが明確になっていないと思う。 工夫し続けるという事は 原因と結果として成り立っているからではないか 私はそう思う。
人を大事にしよう!!
何か人をもっと大事に使う方法があるのではないかとそう思う。 いらない労力をかけ過ぎている。 もっと良い方法があるように思う。 日頃からゆったりあれこれ考えていれば済むものを ある時、極限状態で考えさせても後の祭りである。 人がまっとうに考えられるスピードってあるように思う。 ある人は早過ぎるしある人はなさ過ぎる。要するに両極端なのである。 ゆっくりああでもないこうでもないと考えれば良案は浮かぶもののような気がする。 日本全体がゆっくり考える思考が足りないそんな気がする。 もう少し日頃からゆっくり考える癖をつけた方がいい気がする。
物理と民主主義(201204)
自然を理解するのには高い基礎学力が要求される。 だから敷居が高い。 国民は民主党を選択し 民主党で良かったという実感が無い。 つまり良い結果に導くという民主主義が機能していない。 社会的にも物理というものがどういうものか 知ってもらう事は出来ていない。 私はそう言う事を知ってもらう事で こちらも動きやすくなると思うのだが まだまだ不十分である。 物理学も民主主義も課題が多い。 だからあんまし明るく見えない。 結局仕事は山のようにある気がする。
組織論(201204)
何か人をもっと大事に使う方法があるのではないかとそう思う。 いらない労力をかけ過ぎている。 もっと良い方法があるように思う。 日頃からゆったりあれこれ考えていれば済むものを ある時、極限状態で考えさせても後の祭りである。 人がまっとうに考えられるスピードってあるように思う。 ある人は早過ぎるしある人はなさ過ぎる。要するに両極端なのである。 ゆっくりああでもないこうでもないと考えれば良案は浮かぶもののような気がする。 日本全体がゆっくり考える思考が足りないそんな気がする。 もう少し日頃からゆっくり考える癖をつけた方がいい気がする。何だか最近組織が危うい。 上層部の考えを周知徹底した方がいいのでは? 下の人が勝手に何の考えも無しに行動する組織って どういう組織なのか私に理解出来ない。 上層部は下に情報を流すために知恵を絞らなければいけない。 下は上層部と連係しなければいけない。 上の考えと下の考えの乖離は 世の中を悪くする。 世の中を良くしたいなら うまい説明を試みなければいけない。 専門性であきらめたらいけない。 他人と共有できる人間にならなければいけない。 そう言う人間が世の中を良くする。 自分だけで良くなろうなんて 世の中おかしい。 それこそが民主主義とはき違えている。 民主主義で我々はまとまって良い結果を出さなければいけない。 そのためには まわりとの共有が大切である。 そのために上層部は説明に知恵を出さなければいけない。
仕事について
一日一日時間をかけて最善を尽くせば我が身の説明は何とかなるものである。最善を尽くせなければ、順序良くできる事を形にする事である。形にできなければ何故形にできないか?明確にし報告、連絡、相談する事である。それでもどうにでもならなければ他の事をやるしかないと私は考えている。
仕事による恩恵
他人に言われてプログラムの足りない所が気づく。自分の知らないプログラムに関する情報を他人から得る。他人から文章のチェックが入る。何か一人でやるよりいろいろ効率的だから組織はありがたいものだと感じている。
働くという事
理想としては汗を流して生き生きとすがすがしく生きるために、または生をまっとうするために働ければいいなあと私は思っている。
日頃の自分の活動
日頃の自分の活動ほど地道で底力が出てくると思われる活動を目指したいと考えながら過ごしている。なぜなら、そんな活動をすれば失敗しても何があっても私の場合、その活動に対して自分自身が許せる気がするからだ。
労働について
私自身は自分の労働が自己の利益の追求というより 労働する目的ための奉仕という意味合いの方が比重が重い。 だから何のために労働するのか把握しないと どのような労働がベストか判断できない。 また与えられた情報では 何がベストか判断できないこともある。 だから自分の状況を説明して指示を得る機会が必要になる。 結局、労働する目的の追求が自己の利益の追求と別次元で労働している感覚がある。 だから私が働いている会社がどのように評価しているか 私が労働に関して自己の利益を追求すると気になるのである。
我が仕事
何かを作るという事は何かが出来るという事でもあるが その作ったものに責任が発生するのである。 だから強いストレスが生まれる。 結局その責任のために、たくさんの人から指摘を受ける事になりそうである。 私自身もより良いものを作りたいと思っている。 だからその責任を全うしたい。 本音を言うと何かを作るよりアフターケアや評価の方が気が楽である。 でも今の所(2009/2)、私の仕事はいろいろな機会を与えられている気がする。 ありがたい事である。
工場生活 (2009/05/15)
大仁にある東芝テックの工場に勤務している。 おかげでなぜなのか私は工場勤務が好きである。 技術情報もあって時間をかけて経験を積んでいると思う。 結局、自分の出来る事しか出来ないわけだから 出来る事を着実にやっていこうと思う。 利益がでていろいろな意味で社会の役に立てて給料をもらう。 そんな当たり前の機会を継続する事が私の役割だと思っている。 工場の勤務が私にとっても、会社にとっても、社会にとっても 良い安定したシステムなんだなと感じている毎日である。 もしかしたら工場の勤務で社会の一員のような感覚が持ててるのかもしれない。
ガラス張りな進捗
ここの所 仕事してて ガラス張りで生きている気がしてくる。 失敗した事と成功した事と報告し その中で乗り越えた事と乗り越えれなかった事をまた報告する。 進捗も合わせてその繰り返す展開が何となくガラス張りである。 事実は事実であって意味は無い。 だから事実をいかに作り上げていくかが大切である。 結局、事実を作る事が出来ればガラス張りで生きていける。
説明出来る事実
眼鏡がいろいろに他人にはうつると言ったので 眼鏡があるという事実は変わらないと言った。 結局の所 事実は厳然と存在する。 それをあたかも無いように解釈したって 人間は生きていけない。 だから事実を作り上げる事こそ 大事なのである。 事実を解釈したり批評するのは 仕事になりうるかもしれないが 事実に逃れられない現実を知って始めて成立する。 だから否定出来ない事実こそ 強力なものは無いそう私は思っている。 今の出来ていない仕事も どういう経路をたどり仕事しているか説明出来れば それも事実である。 我々は事実こそ強力な武器になりうる。 だから説明出来る事実こそ 大切な現実なのである。
点と線
昨日はBSでヒトラー 今日はBSでエジソンを見た。 なかなかどうして 点が線にならないのか考えさせられた。 ヒトラーの場合 批判者を受け付けなかった。 エジソンの場合 経営戦略が足りなかった。 何となく他人との関わり方が 点が線になる分岐点のような気がした。 自分一人で活躍しても仕方ない。 自分と周りが活躍しなければ 点が線にならない。 そう思うと アメリカンフットボールとかサッカーとか見ていると そういう風土が色濃くあらわれているのかなあと思った。 日本人もマンパワーな宮本武蔵は何とかクリアしているけど 組織的なチームワークはおくれているそんな気がした。
ゆとりある自由
ゆとりの何がいいかと言うと 自由である事である。 自分でいろいろな事が出来る。 だけど ゆとりの中に忙しさも必要である。 だから 忙しさにもゆとりが必要な気がする。 他人からいろいろ仕事を要求されてもゆとりは必要だし 自分の自由な時間があっても自分の気づかない他人から知識を得る事も必要である。 結局、 ゆとりだろうがなんだろうとも 自分の裁量はどこまでもついてくる。 それを肝に銘じるべきである。
夢中になるのがコワイ
何だか他に注意がいかなくなって 夢中になるのがコワイそうだ。 私の感覚だと 夢中になるから 悟りがひらけるわけでも無い。 夢中になってもいろいろな事や気持ちを考えられるからである。 借りにいろいろな事や気持ちを考えられなければ 私は一旦休んで ゆったりとした気分で頭の中で整理し体操し思い描く。 そこで何か未来の構想や戦略を立てる。 そうすると休みの日も仕事の日も落ち着いて過ごせる。 若い頃は自分の仕事が気になって仕方なかった。 けれど段々休みの日も構想や戦略を立てる事で比較的落ち着いた生活が出来るようになった。 だけど構想や戦略はあくまで頭の中だけの事が多い。 それで結構未来に対して役に立ってきた。 構想や戦略だけでも未来の仕事は作れる。 結局私の場合休みの日も必要になってきている。 だから色々考えられなくなったら 休めばいいのである。
電磁波と催眠術
大槻教授のブログに 電磁波の人権侵害とテロ活動について書かれていた。 私は十代に テンカンの薬を飲まされた。 この技術は医者もグルである。 電磁波に耐えれる体にさせられた。 テスターの電圧計も電流計も 百ミリアンペアとか百ミリボルト計測されることがあった。 まぶたも光ったし 布団も光った。 雨の日は ふとともから血が放射してかさぶたが出来た。 催眠術は怖い 無意識で何かをやってしまう。 おでこが痛くなってトランス状態にはならないので 変な感覚が残る。 これだけのことを言って精神科の医者が 病気だと言うのだから 医者もやっばりグルである。 テスターという機械を信じなくて 科学者と言えるだろうか? 大体税金使って 日本で一番多い博士は 医者である。 何らかの学習方法を広めてもいいものを 生ぬるい。 もっと社会貢献出来るはずである。 私はアイデアは記憶ではないと思う。 何かしらの課題に対する工夫である。 不都合あるがらこそ乗り越えようとする時 アイデアが生まれるのである。 そういう事を語らずに のうのうと自分だけ健保の金で生きて 私は何の保険もおりない。 不満タラタラである。
個性と効果
一日二日の食事のメニューさえ忘れる始末である
仕事ではそんな自分の性格でさえ認めてもらえない
ケースバイケースで個々の性格がいかせれば良いだけで
自分の性格まで言われると興味が失せる
いろいろな他人の個性に対していろいろな効果があるはずである
個性に意味がないように原因にも意味がない
個性や原因に各々の効果があるだけである
マクロとミクロ
ミクロが得意な人にマクロの大変さを伝えるのは難儀である。
マクロに求められるのは漠然とした全地球上の広い視野から
一点を指し示す力である。
そのマクロの力は時として簡単に断定せず
時として曖昧なまま過ごせる度量が必要である
そこからある時一点を見いだすのである
ミクロも大事かもしれないがマクロも大事である
人前にでて話すテクニック
私は何回やっても慣れない。けれど最後は今のところ自分が考える自分なりの結論を言って例えば挨拶として「ありがとうございました。」とみんなに終わった感じを持たせる事が大切なようである。要はどうやって最後をしめくくれるかあいまいにせず明快に最後をしめくくらないといけないらしい。自分の個人的な意見としてふまえつつ 最後は総括できるテクニックが求められるらしい。そうするとなんとなく出席して良かったと思える。私は優柔不断ですぐ結論に持っていこうとしないので司会に向かなかったらしい。他人の名司会を見ているうちに自分なりに最後をまとめるそんな勇気が必要な事に気がついた。だから最後をまとめて素直に納得するような司会こそ名司会なんだと私なりに解釈している。
普遍性のある技術について
結構ちまたには普遍性のある技術があふれ私自身、漠然として夢がない気がしないではない。数学だって英語だってプログラムのデザインパターンだって始めは勉強して意味があるのか半信半疑である。だけど使えば使うほど私の場合、夢が広がって仕事が楽しいと思える気がする。だから仕事して普遍性のある技術に対して夢が持てなくても、つまらなくても使って使いまくるそんな機会が必要だと私は思う。人間たいしてそんなに違わないのに違いがでてくるのは使って使いまくる経験豊富な知識だと私は思う。
リアルな現象
私が学生時代に何に興味を持てるかという問いに出てきたものが リアルな現象である。 けれど大学では偽と真の区別が私の中で判断しづらくなってしまった。 つまり物理そのものに対して疑惑を持ってしまった。 大学を出てからは物理現象そのものより 物理とは何かという事を整理し考えるようになった。 今に至っては、私が行動できるリアルな現象 つまり仕事上の現象の方が私にとってリアルな問題になっている。
プログラミング
私がプログラミングを始めたのは大学生の頃からである。当時あんまり深くプログラミングについて私にとって重要なものになるなんて考えてなかった。ただ何となく面白く集中できるものだなと感じた。それにプログラムを作るのは小規模でも大規模でも機械が正確に動くため何かができそうな可能性や夢を感じる。私の場合、自分のできそうな事を選択してるうちにプログラミングするようになってしまった。今では我が能力の向上にもかかせないITの進歩に感謝である。
長い時間の実感を得る事
休みの日、たまにはじっとして、長い時間を実感して気の長い気持ちになるのも、平日の仕事などのために必要な気がする。忍耐力、持久力、発想力に結びつく休みとしたいものだ。
人間関係
他人より自分の事をよく知っているのが現実だ。あんまり、よく知らない他人の事を余計に考えるはよそう!普通に自然に穏やかに接して勝手に決め付けるのはよそう!困ったら自分の周りの状況を詳細に伝える能力を持とう!
余計な事は考えない
余計な事を考えない方法は 頭を真っ白にする事である。 得てして人間は考えなくていい事まで考えてしまう。 何を考えて何を考えないかは 人間は選択出来る。 そういう訓練していると 平然と思考を選択出来る。 こんな事を言う人私ぐらいかもしれない。
スッキリした思考
自分に関係がないならば自分にとって気分の悪くなる気持ちは極力考えない方が良い。なぜなら、なるべく自分の素敵でいい気持ちのみを考えた方が自分の気持ちがスッキリし気持ちがチャントする。
生きていく喜び
自分の気持ちを取捨選択しつつ自分を構成し、なるべく生きていく喜びには素直になった方が良い。その方が力強く楽しくタフになれる。反対にあんまり複雑な自分にならない方が良い。生きていく喜びは人間としての本質だから自分自身にとって無視できず明快な部分である。明快な部分である生きていく喜びを複雑にするには無理があるのである。
シンプルな気持ちを取捨選択し組み立てる
シンプルな気持ちを取捨選択し組み立てて運転できる方が 生身に素直な面により気持ちに耐久性がある。 だから生身の体から発するシンプルな気持ちをいかに取捨選択し組み立てられるか 状況が悪いほどせまられる。 同時に生身の体から発するシンプルな気持ちは 他人と気持ちを共有できる部分でもある。 だから他人の生身の体から発するシンプルな気持ちを私自身簡単に否定できない。 もし簡単に否定すれば結果的に誰からも気持ちを共有できないだろう。 以上もってシンプルな気持ちの重要性を知らない人の話は聞かない方が良い。 我々人間にはシンプルな気持ちを取捨選択し組み立てて運転する事が 大事だからである。
共通認識
お互い他人のペースを乱す行為は絶対に許さない信念を持とう!もしそんな事が横行するならば、とんがった人を許す世の中になる事に肝に銘じよう!
人の上に立つ事
人の上に立っても勉強はできません。人の上にたっても物はかぞえられません。人の上に立っても自分の事が考えられるようになりません。むしろ何でも自分で解決できる人こそ人の上に立って欲しいと私は切に願います。何か自分で世界を切り開く気概もなく人の上に立たれても迷惑なんだよね。みんなの上に立てば自分が何かができるなんて幻想だと考えています。
気持ちの共有
作業しながら平然と淡々と一日を過ごす事を長く実行できる人こそが人に通じる、話のわかる、人の気持ちの共有できる人だと思います。
私の願望
学校に問題を感じ、社会に問題を感じ、そんな若者には大局的な視点で世の中を洗濯する意気込みと信念を持って生活してもらいたい!何か自分の中でスッキリするような概念を持てることを願っています!
トレーニング
学校の問題、社会の問題、時事問題、試験問題等の何の興味のない事を考えるのも頭の体操になるのだ。だから身の回りの問題を避けても結局自分のためにならない。真に成長したいのなら人間には問題の中で生活する不屈のたくましさが人を大きく成長させるのである。
人間のあるべき姿勢
何を真実とするか?いろいろな議論があると思うけれど自分が限りなく真実を求める姿勢、求めた真実にむやみに他人に強要しない姿勢、他人に影響しなければ自分の世界だけでも求めた真実で納得のできれば良しとする姿勢が大切だ。結局、たくさん自己完結できれば、話が聞きたいと思う人がおのずから増えると私は思う。
私の中で一番最悪だった状態
自分で本当に足で立ってるのが信じられなかった。世の中を絶望していたから自分が足で立っている事だけが自分の支えだった。。自分がゾンビのような気持ちだった。どんなにうちのめされても、足で立ってるような気さえした。結局、自分が生きている事実だけのみ明白だったんだと思う。自分の周りの最悪な事を考えるより唯一なんとか私が考えて感じられたものは自分の生命力だけだったのである。
一番最悪を脱する私
結局この一番最悪な状態は自分が生きているという実感が私自身を見つめなおすキッカケから始まった。その結果、絶望した現状の世界のために最悪な私でもなんとか行動可能な私の中の大事であると思うものが私の中でだんだん大きくなっていったのである。
人間の究極の理論
誰がどんな宗教を信じようとも、 人間の究極の理論は世の中のために熱いハートを持つ事だ。 それができれば困れば困る中、例え生き恥をかいても生き抜けば、 フェニックスとなって 自分にある心の底の気持ちがストレートに自分で理解できかつ表現でき 自分の五感から生まれる心の底の気持ちと向き合って真摯に生きれる。 私の中で自分の考えと自分の五感と自分の心の底とで整合がとれる。 整合がとれるから自分の直感が心の底から働く。 結局自分のためになるものだと私は感じている。
何が何でも生き延びる技術
私が思うに自分でも実践できる考え方は何かという事にいきつく。 つまり何を考えたら私は実践できるか実現できるかという所から 結局自分が窮地においやられて 本当につまらない些細な事から実践していくしかなくなっていく。 自分の中で小さな事を積み重ねていこうとする。 それで自分の中の小さな宇宙(希望が持てる世界)ができたとき その小さな宇宙(希望が持てる世界)が膨張していく それが何が何でも生き延びる技術なんじゃあないのかと私は感じている。 またそんな経験から自分が何かができる事の重要性を実感している。
私とあなたのために
いずれ時間がたてば最終的に自分の環境は自分の力でできあがるものである。だから、どんな時も自分が精進を重ねる事を忘れてはいけない。みんな精進して生きているのだからお互い真剣に精進できれば幸せだと私は思う。最終的に自分の精進が自分に返ってくる。こういう合理的な考えが社会や世の中にはとっても重要なんです。私のためにもあなたのためにも。
前向きでいる事
フランス革命やらルネサンスやらヨーロッパの中世史やら本を読んでみて社会も一個人も前向きに努力を積み重ねる大切さを感じた。何だって誰だって前向きだからこそ世の中がうまくまわっていける。つまりそんな前向きなための世の中なら、どんどん世の中は変わっていけるのではないかと私は感じている。だからこそ自分と世の中のためには、社会のどんな位置に占めても、どうにかして前向きでいる事が大事だと私は思う。
幸せによるポジティブな創造力
我々人間に必要なものは 「幸せによるポジティブな創造力だ。」 どうも世の中を勘違いしている気がしてならない。 幸せがあるからこそポジティブに創造できるのだ。 それに反する事なんて不幸でつまらない事だと認識すべきなのである。 幸せとポジティブなチャレンジと創造力は(幸せ⇔ポジティブなチャレンジ⇔創造力) お互い相互作用を及ぼしているのである。 けれど私には このサイクルを実感できる世の中にする必要があると思うが 他人に教える自信があまりない。他人の発言を聞いていて、 他人の世界が違いすぎて私が言っても理解してもらえない気がするからだ。 だけど私の中では確実にこのサイクルは(幸せ⇔ポジティブなチャレンジ⇔創造力) 成立している。
学習への認識
勉強する内容によって早くした方が良い場合とゆっくりやった方が良い場合があるように思う。暗記だったら繰り返し早くした方が良い気がする。文章を読んで多角的に分析する必要があったらゆっくり進めて途中で中断していろいろ寄り道して考えてみる必要がある。私の個人的な意見ではこのゆっくりした学習のほうが世間に対する効果が大きい場合が多い気がする。なのに世間では試験勉強など早く勉強する傾向が多い。途中で脱線して寄り道するぐらいの試行錯誤が欠如して試験に合格する目標で競争している。確かに試験に直面した現実は厳しい。けれど試験に合格する事だけが目標ではないはずである。もうそろそろ試験のみではなく考えたい問題から寄り道してゆっくり試行錯誤する大切さが結果的に自分のためになると気づいた方が良いのではないかと思う。
学習の究極の理論
独力につきまとう自分だけの思い込みにならないように他人とのかかわりを持ちながら基本的には自分一人だけで学習できる事が学習の最終目標だと私は思う。
スポーツの出来事
小学校低学年の頃、放課後サッカーして遊んでいた。 私はキーパーをまかされた。誰かがシュートした時 周りの景色はボーッとしてボールだけがスライドショーのように ある時のこまぎれとなってボールが見えた。 だから王元監督の言う事は私は信じている。 私の見たボールより小さくしかも速い。だから神わざだと思う。 イチロー選手だってそんな事はないと言う。 けれど私が体験した事は直感でありうると考える。 今までこんな私の直感が働く所が私の長所かもしれないと思っている。
スポーツの経験
青年期にかけて私の体は思うように動かなかったが 私にとってスポーツほど自分の考えた事を実践できる良い経験となった。 だからスポーツで何を実現したいか考える事は大切な要素である。 結局、私の五感はスポーツの経験で養われたといって過言ではない気がする。 その他には スポーツで自分の考える事がうまくいくと思う直感や スポーツにおいても考えて行動する意義は私の原点のような気がしている。
絵心
子供の頃は変な絵を描く事が好きだったように思う。 現時点ではデジカメを手に入れても 何をうつせばいいのか発想が浮かばない。 子供の頃の方が好奇心旺盛だった気になって、 それだけ周辺に対して自分の興味が薄れているという事になり。 結局、子供の頃の方が幸せだったんじゃあないのかと思ってしまう。 子供みたいな自由な発想ができないのは悲しい所であるが、 いくらかの抵抗を示せるのか自信はないけれど、 いろいろな花をうつすとか、 テーマを考える大人の戦略が必要なようである。 それにしても、ここの所夢なんか記憶にないし 最近なんか印象に残るようなシーンって無いに等しいのよねえ。 テレビを見る集中力が続かないのも関係しているかしら。
音楽
メトロノームに合わせて楽譜どうりに演奏したい。 私の当面の課題である。 ドラムをたたくとドラムの音でメトロノームが聞こえない。 目で見ながらならたたけるけど邪道のような気がする。 こんなに苦労するなら子供の時にやっていれば 良かったなと思ったりするが過ぎたものは仕方ない。 私の中で 子供の頃私が音楽をやっていれば 繊細な子供になれたんではないかという幻想みたいなものがあるのだが 物理やって大人になっても自分が繊細になれた気がしないので たぶん私の誤解であろうと判断するけれど それだけに私の子供時代はパワフルだったのかもしれない。 つまり私がいだく幻想は 落ち着いて何かに取り組む繊細さをもたらすかもしれない。 けれど取り組む時は良いのだが 私がひまになると冷静さが失われるのは困ってしまう。 結局、心のゆとりがない自分に気づいている。全く困ったものだ。
wakkii式新陰流の極意
自分の暗い部分を人と話のできるような新陰にして明と新陰を昼間と夜のように繰り返す事こそ人に活力を与える活人剣の妙あり。
価値観
自分が大事にしたい、守りたいものを育む事は自分が困れば困るほど役に立ち真価が問われるものはない。又時とともに移り変わるものだと思う。価値観を育む事は人間の美しい所だと思う。
心の中の知識
本人の心のあらわれ方に、本人しかわからない世間の知らない知識が本人の中に既にある。だから人に限らずあらゆる生物の中に心の奥底にある気づかない知識が既にあらゆる生物にある。だから私自身、ホームページの内容の一部もかなり時間が過ぎてからもともと自分にあるものに気づく事があった。むろん子供だから思いつく事もある。だから本人の心を詳細にあらわす事は大事な作業だと思う。
最終的に我が心に残るもの
自分が実現したそのものより 自分の心を表現した形の方が最終的に我が心に残るのである。 だから私が何かを実現した中で自分がどんな心になって自己表現させた事は 人間にとって最終的な作業として大切に思える。 心の表現を形にすれば自分自身が満足できる。 私の場合、心の表現を文章のように形にできて 一番大事な宝石箱のような宝に感じているのである。 だから心の表現を形にする事は最終的に我が心に残るものとして 人間の大事な作業だとつくづく感じている。
理想の弊害
人の可能性を妨げる理想は存在するように思う。特にあんまり他人がする事ができない事を押しつける理想なんて意味がない気がする。理想を掲げる前にどうしたら他人に対しプラスにはたらくか考えてものを言ったほうが良さそうである。また極論を言うと、あらゆる理想を強制されると自分らしさが失われる。自分の色は自分で描くものであり、他人が描くものではない。理想を吸収できるのかできないかは本人次第だと私は思うし、本人のプラスになると思ったら私の場合、極論だって平気で言う。お互い人生山あり谷ありで成長する。時間と場所と場合で考え方は変化するのである。
他人の理想
私の小学生から高校時代に近くに住んでいた奴の話である。 私が水泳大会でズルをした。 ある下級生はアンダースローで投げていない。 ある同級生は先輩に抜擢されて平等じゃあない。 それが本当であれ、 もっとどのようにすれば良かったのかのが大事なんじゃあないのかと思う。 彼らにあるのはそういう人間そのものの否定にしか聞こえない。 あいつはダメだ。そういう風にしか聞こえない。 それでいて多分どうせ自分のやる事はたいした事ないから手に負えない。 成功するにはそれなりの努力が必要なのに 勉強する事を否定し努力をする事も投げ出している。 なのに自分より強い他人に厳しいのである。何かがおかしいそう気づかない事には 今もなお他人の理想は成り立たないそう感じている。
良い結果が出ると出ない
結局の所 良い結果が出ると出ないでは 個人の評価は変わってくる。 本人にとっても他人とっても大きな影響があろうかと思う。 複雑な所では価値観が違うから評価も異なるかもしれない。 しかし同じ人間共通の 根本的な所で結果を出せば 話は違ってくる。 例え扱いが悪くても そういう根本的な所で結果が出れば 違ってきて当たり前である。 他人が自分の評価に不満があるのなら 根本的な所で結果のでない人間だと見られているのだろう。 普通根本的な所で結果が出ていれば 他人は絶対尊重するし話は聞きたがるし丁寧な扱いをするだろう。 それが普通の常識的見解かと私は思う。
いじめと集団行動
私はどのようにしていじめが生まれるのかは知らない。 だからあんまし参考にもならないかもしれないが あえて頑張ってみる。 ただ私の学校生活は 個人主義がはびこり 勝手気ままな発言をする奴がいて まとめきれなかった。 それからというもの 自分が自己完結すれば良くて 他人のことは他人にまかせるようになった。 私はそれが幸せなのかは判断できない。 他人に介入して他人を幸せにするのもありだからだ。 まとめ役と個人主義は 油と水である。 理想は まとめ役が様々な意見を求め 個人は まとめ役に協力する事だろう。 相互扶助が大切である。 私は集団行動するからには 大きな成果があがるように生活すべきだと思う。 それこそが集団行動の利点である。 個人では出来ない事を集団行動で成果をあげる。 私の時代にはこれが出来なかった。 これからの子供たちは 組織として機能する社会を作り上げて欲しい。 まさに今現在我々の能力が問われているのである。
理論と実験のバランス
理論と実験のバランスの時代なのではないか?それは 理想と現実のバランスあるいは ボトムアップとトップダウンのバランスあるいは 左派と右派のバランスが 他人を大事にしたいと思えて シンプルで純真な心を持ちうる個人の自由が生まれるポイントのような気がする。 私自身極端な世界にいたから両極端な世界における個人の居心地の悪さを知っている。 他人を大事にしたいと思えて建設的で創造性あふれたシンプルで純真な心を持ちうる 個人の自由が生まれるには どうすべきか知恵をしぼって考える必要がありそうである。
私達が必要とする人
私達が求められる事は偉くなる事でもなく賢くなる事でもなく理想の人になる事でもない。今の環境下での現状の打破のためにいろいろな経験を積み重ね障害を乗り越えていく人である。英語をすれば外人と会話できる。パソコンを使えばいろいろな機械として正確に動く。データベースを使えば大量のデータを処理できる。プログラムを使えば機械の制御と様々な情報処理が出来る。ドラムをやれば様々な演奏ができる。短歌と俳句をすれば自分の気持ちを表現できる。このように自分の中で乗り越えてきた様々な経験によって今の環境下での現状の打破につながっていく事が私達が必要とする人なのだと思う。
私の体と頭
小学生6年から高校卒業までストレスや緊張すると筋肉がはたらかなくなった。大学ではテスト直前に他人に数学を教えて試験中混乱し他人は数学の単位を取得したが私はできなかった。催眠術みたいなものもかかった。今でもドラムをたたくとありえない方向にスティックが移動する。他にもたくさんある。それだけ私の頭と体は不安定で自信が持てないのだ。多分みんなに頼りないようにうつるのは仕方ない。結局なんかどことなく頼りない性格にもなってしまっている。
私の身体的苦痛と精神的苦痛
我が半生(2009/10/16)を振り返ると私の身体的苦痛と精神的苦痛から 私は保護されるべき人間で がんばるべき人間ではないそう思う。 なのにがんばる人間に属している気がする。 私の身体的苦痛と精神的苦痛を考えると もっとがんばれる人はたくさんいるはずである。 そういう認識がこの世の中に欠如している。 私が活躍する以上にもっと他人が活躍しても良いはずである。 私が活躍するなんて恥ずかしい、 そういう認識が正常だと私には思えるのである。
とらわれない心
どんな時、とらわれたらいけないのか?自分の愛が小さな所で、とどまる時だ。とらわれない心を持つ事ができれば、その本人の愛が世界に広がる可能性が生まれるのである。
「1Q84 (著)村上春樹」
手を握った思い出しかない 小学生時代の同級生だった青豆と天吾が 三十歳ぐらいをむかえる1984年を舞台に 再会もせずお互いひそかに恋心を持ちながら 物語上にあるお互いの問題を物語上間接的に共有する。 そんな事が我々の世界で起こるだろうか? 不思議な気持ちになる。 私のする事が誰かに影響しているかもしれない。けれど 今の所私にはどのように影響を与えているのか全くわからない。 つまり私のする事に対してこの世界は無反応なのである。 これから私の人生で(2009/06)そんな現象が起こるのか半信半疑である。
「世界の終わりと
 ハードボイルド・ワンダーランド(著)村上春樹」
主人公の頭にある世界の終わりの主人公の世界と 主人公の頭にある出来事によって 主人公が事件に巻き込まれる世界が同時進行される。 最後は主人公は世界の終わりに支配され意識を失う。 世界の終わりの世界の主人公は 世界の終わりの世界にとどまる決意をして話が終わる。 自分の中にある世界の終わりのような壁というより、 私の場合には世界の終わりのような壁を他人との間に 存在するような気がした。 どうしてもその壁をなくす事が出来ない。 そんなストレスを感じている。 自己表現する事が私の出来る唯一の抵抗だと私は考えている。
「ねじまき鳥クロニクル (著)村上春樹」
この小説は三部作であり 主人公のオカダ・トオルが妻のクミコとの破局に直面し 登場人物とのかかわりあいを通じて格闘する 空想上のアドベンチャー小説となっていた。 破局に直面した直接の原因も空想上のもののような気がした。 主人公が妻のために冒険していく。 その冒険は登場人物の人生経験を参考にして展開される。 そして一つの結末を向かえるそんな小説だった。
「海辺のカフカ (著)村上春樹」
話としては不思議な物語のように感じた。 主人公の田村カフカより 淡々と自分の役割をこなす。 ナカタさんとホシノさんの方が好感を持てた。 結局田村カフカは東京から家出をして 自分が背負うものを見つけて東京に戻る。 そのためにナカタさんとホシノさんは 物語上の任務を淡々と遂行する。 私の価値観では自分が背負うものを見つけるより 自分の出来ることを淡々とこなす方が好きだと思った。 それぐらい私が背負うものが過去にあったからかもしれない。
「ノルウェイの森(著)村上春樹」
人間の内面と人間の体のバランスがとれない苦悩を感じた。 様々な登場人物の中でもそれを感じた。 自分と他人とに心と心の衝突と調和がなければ いつまでたっても、体と内面のバランスはおとずれず 幸せにならないのではないかと思った。 その意味で自分と他人との心と心の衝突と調和は 心の底まで喜怒哀楽をともにできる人間の本質にかかわる 重要な要素なんだと思った。
歯には歯を
才能のある蝶には才能のある花にとまる。 要するに歯には歯をという事だろう。 他人に自分の求めるものがあれば自分が求めるものにならなければ 話は成立しない。 他人にいろいろなものを求めてばかりで 自分は何を持っているというのだろう。 毎日私の幻聴は情報量の無い興味の無い話ばかりで 私と声の主とで何かが実現する気がしない。 全く夢が無いそう思っている。 もう少し他人に求めてばかりでなくて自分でどうにかするぐらいの たくましい気構えが欠如している。 自分の力を信じられない他力本願の性格は幸せになれる気がしない。 他人に求める分だけ自分もがんばるしかないのではないかそう私は思う。
Visual studio 2010 (2009/10/23)
Windows 7に伴ってVisual studio 2010がいつの日か発売されるようである。 F#というプログラム言語を学ぶ機会がやってきそうである。 個人的には便利な物を使いたいと思っているので F#が使いやすければ当然使いたいと思うはずである。 何か次から次へと新しいものがやってきて 休むひまが無い。それだけに個人的なチャンスが生まれると言う事だろう。 何もプログラムだけの話ではない。 進化する地球全体がそういう機会を持っている。 個人的に自分にチャンスがあると思える自分がいるかという事は チャンスをつかむ大きな要素である。 安月給だって自分の仕事に、ほんの少しでもチャンスがあるはずである。 それをほんの少しでも見出せるかは個人的な能力の一つである。
新しいIT技術
仕事していると新しい技術が次から次へとやってくる。
それだけにみんなにチャンスが生まれるだろう。
自分のやった事がむなしくなる程に便利になっていく。
その反面、自分の能力を高めるチャンスでもある。
私の能力開発自体がITの恩恵を受けていると認識している。
今の流行を考えたらITを使って能力開発する手段は有効である。

自分なりの利用方法を見つけるだけでもエキサイティングな程
ITが便利な世の中である。
集中するとこわい
私って集中するとこわくないのかわからない。 他人とどう違うのかわからない。 ただ私の場合、集中しても何か空白みたいなものがある。 それがある意味考えていないという意味で考えられる条件や思考反応の時、危険性も含んでいる。 逆に考えられない条件や思考反応の時は優位かもしれない。 だから個性のメリットとデメリットがあるわけで 私の場合が良い状態とは決して言えない。 スポーツの場合だって研究だって仕事だって 考える条件の優位なパターンだって考えられない条件の優位なパターンだって 必要だと私は思ってます。 ガチガチに考える条件だけで考える必要だってあるわけで もう少しそういう世界を理解してそういう人と話が出来る楽しい会話方法があると私は思ってます。 大学にいる時は神経質な緊張状態だった。仕事も同じ状態です。 それがこわいというなら、私も同じ条件にいるわけで生きていく厳しさに他ならないでしょう。 ただ、私は何かしらの貢献がしたいそう思って行動してます。 あんまり、こういう貢献がしたいというものでもありません。 こだわりもなく、平凡に貢献を積み重ねる事が仕事だと思ってます。 理解されなくてもいいと思ってます。私が出来る事をしていくだけです。 だから私には集中するとこわいが理解出来ないのです。
真剣になる事がコワイ
ゴジラの本があるとして ゴジラの本を読むのにゴジラになったつもりでその世界に没頭して本を読む。 それが自分にとって良い事なのかはわからない。 事実を冷静に分析してあくまで自分の立場をふまえて考えるのも悪くない。 私の場合、没頭するのにその世界に入り込んでいるのだが 自分の立場が不安定であるという欠点もある気がする。 自分の立場をしっかり持てればしっかりとした仕事が出来る気もする。 ありていに言えば自分の立場もあまりこだわらないから 何かを自分なりにかかえてしまう。 かかえたまま、どうにかしたいと思ってしまう。 多角的に見れる分だけもろいかもしれない。 直線的だけど頼りになるし強いも悪くないと私自身はそう思う。 個人的にはする事をするには正解があっても性格に正解があると思えない。 包丁でスパッといかないのが性格なんじゃあないかと思う。 だから興味の無い主張する女の話聞いても真面目に聞く気がしない。 性格に正解は無いのだから興味の無い女の主張ほど他人を不幸にするものはない。 大体私が何かをやりたいと折角思っているのにストレス与える女の主張なんて、 どう考えても女のセンス無い。 まったく聞く価値が無いから聞くだけ馬鹿馬鹿しいしあほみたいな気になる。 結局、興味の無い女の主張ほど罪悪なものはない。 だから自分の興味のある女の話しか聞かない。それで良いのではないかと思う。
私の出来る限界
一定の合意に達しない他人の話のせいで 私はリーダーシップをしたいと思わない。 自分の当たり前が共有できない世界があるという、 うんざりした嫌な感覚を私は今も味わっている。 だから私は自分の当たり前を共有できる人しか興味が無い。 自分の当たり前が通じない人にどうやって接すれば良いのかわからない。 私にとってわかる人にわかってもらえれば良いのである。 すべての人にわかってもらう必要は感じていない。 もしすべての人がわかってもらえると他人が考えているならば 私の経験上無理ですと言うしかないし、遂行もしたいとも思わない。 自分の当たり前が通じない相手になすすべがない。 他人がどうであれ、 そういう認識が私の出来る限界なのである。
大事な事
結婚相手だけで幸せになるだろうか?他にも大事な事があるじゃあないかそう思う。 他にも大事なことがあるから結婚相手にも幸せを願える。 そういう大事な事がたくさんあれば 何かに固執する事もないのではないかと思うし他人の意見も尊重できる。 私の話も聞かない上ただ自分勝手に私にせまる。 他の大事な事が全然無い証拠である。 そんな話は私が幸せになる気がしない。 もっと他人の幸せを尊重できるように 大事な事をたくさん見つけられるしか自分自身が幸せになる道は無いように思う。 だから結婚相手だけで幸せになる気がしない。
浦島太郎について
浦島太郎は自分の人生の大部分を竜宮城の姫君とたわむれて過ごしたわけだ。浦島太郎は幸せか?不幸か?竜宮城の姫君にもよるのか?男の人生としては一般的で大切なものなのか?亀にすれば良い事をしたと思ってるんだろうか?私にとって何か他人事ではない心境である。
実現する可能性と夢
不確定要素を含む人間の可能性の中でも、この人とならば楽しみながら、何かが実現しそうな夢をもてるような確信に満ちた気がしてくる。それが私の恋愛なのかもしれない。
恋愛と友情
基本的に二人以上で、ささいな事でもいいから何かができる事がなければ恋愛も友情も成り立たないのではないか?私はそんな気がしている。
イコールにするべきもの( 穏やか=何かをする事ができる , 愛=可能性 )
穏やかでいれれば何かをする事ができる。何かをする事ができれば穏やかでいれる。愛があれば可能性が生まれる。可能性があれば愛が生まれる。
愛=可能性
共に規則正しい生活をする事
穏やかな会話や風情ある落ち着いた生活が共に伴う事
それぞれ一日何かする営みを求め共に満足する事。
可能性
私の話が可能性を感じるならば
私のせいであってあなたのせいでない。
あなたのせいで可能性を追求しなければ
いくら私でも可能性に手が無くなり可能性は枯渇する。
可能性と可能性の融合こそ可能性である。
かけがいのない大切な人
一日の中でその人となら日課がこなせる。その人となら日課が長続きする。その人となら、いろいろ日課について工夫ができる。そんな人がいれば私にとって大切な人になると考えている。
大事にしたい心と精神
私が他人を大事にしたいと感じる心と精神はその人の性格を支えている背景の豊かさである。いくらどんな社会になってもその心と精神だけは大事にしてもらいたい。その豊かさを応援したい。他人を見てそう思うのだ。逆にもし他人の性格を支えている豊かさがどうしても見つかなければ、相手にしたくないのである。
誰かのためならできる事
私の場合私の心には存在しない私が大事にしたいと思う相手の心のためなら何かをしてあげたい気持ちになる気がする。
お互いの心が通い合う事
私の心の表現力と相手の心の私の理解力、相手の心の表現力と私の心の相手の理解力、もしくはお互いこの人の心ならわかる直観。ただし今の所私の現状はひとりぼっちである。この人の心ならわかって、すばらしい心が通い合うのではないかと考えた事はあるけれど発展しなかった。手を握り合って話をしながら心が通い合い微笑みあう日はくるのであろうか?どっちか一方的ではあまりにも悲しすぎる。一方的で尚且つ全然気持ちがわからないでは勝手にしろ私は知らねえだし、私の行く末はどうなる事やら。
お互いの心を確認する作業
お互いの心を日々確認でき、お互いの心が通い合い、お互いの可能性が深まれば、他の事が気にならないぐらい夢中になるとういうならば理解できる。ただ、お互いの心を日々確認する作業もなくただ一方的に夢中になる事なんてあるのかしら?私には一方的に夢中になる人がまともに信じられない。話を聞く気もしない。くだらないアホみたいな気持ちになる。結局相手がまっすぐ私を見てくれないのに一方的に夢中になる事はない。私がまっすぐ相手を見てないのに一方的に相手が夢中になったら、くだらない安っぽい愛だなと思うだろう。ただし好きになる事と夢中は異なるから好きな段階は私も相手もどちらも土俵から引き下がれるじゃあないかと考えている。
私の心の中
毎日不安な気持ちで仕事しているため、確信をもって仕事していない。一日一日できた事だけが確信を持てている。そんな不安定な心のため他人のつらい事や悲しい事や女性のくどい世間話を聞く余裕もない。ましてや、つらい、悲しい姿なんてじっと見てられない。私や他人の一日一日前進していく姿が私にとっての支えなのである。また自分の不安定な心をわかって欲しい欲求は常にあり、誰にもわかってくれないという感情がある。だから今の所、女性の容姿だけが問題になっていない。自分と話が通じて私に対し前向きな姿を示せる人の方が私の感情として特に切実である。
私と他人
他人が私を批評する内容は私にはおかしい気がしてならない。自分自身あまり人との違いを実感しないからだ。たいした違いもなく好きだ嫌いだに意味を感じない。だから聞いても自分自身、信憑性が全くないのである。けれど他人とたいして違わない私の今までの人生の事実は神がかり的だなとは思っている。結局他人と少しの違いしかないでしょう。それなのに好きだ嫌いだに意味があるでしょうか?もしかしたらただあなたが理想にもえてるだけなのではないか?私はありのままを表現しているだけなのです。
人間関係【2】
ドロドロした事をやればドロドロした気になるし、うららかな事をすればうららかな気持ちになる。 だから素直でわかりやすく健康的な人間関係でありたいというのが私の理想である。 一人の男が一人の女性の心により 微笑ましいおしとやかさと心豊かなユーモアと活力のある活動が生まれるなら こんなに素直でわかりやすく健康的な人間関係はないだろう。 曲がってたり、ややこしかったり、クレイジーだったりする人間関係のために 私がみずから首をつっこむ事はしたくない。 それこそ私にとって疲れるしドロドロしたおそろしい事が待っている気がするからだ。
はっきり白黒つける事
はっきり白黒つける事は私には自分が馬鹿をみる気がしてならない。気持ちに幅があるほうが豊かだし、楽しめるし、タフだ。完璧主義みたいにはっきり白黒つけた所でガラスのようにもろいように思える。何よりも自分自身を傷つける事になると私は思う。だからはっきり白黒つける事に否定的な分、完璧主義ではないと自分自身そう思う。だから豊かで楽しめてタフの方が私の価値観では大切なのである。完璧主義でもないのにはっきり白黒させて自分がみじめな思いをするなんて事世の中あるんでしょうか?聞いてるだけでバカバカしいね。あほみたい。
自分の可能性をせばめる発言の抵抗
他人を批判したところで自分の可能性をせばめる事になると思う。だから他人を批判する事には私には抵抗があるのである。極論を言えば私には私の冗談を批判する人よりも冗談と思っても、ユーモアで面白くさらに真剣に考えてくれる人の方が例え冗談としても胸がいっぱいになると私は思う。
理想の人
お茶を飲みながら、笑顔で見つめあい、お互いのコミュニケーションと行動で、お互い上品でおしとやかになれたらなあと思う。なんか自分本位の利己的で自分中心主義な人は私苦手なのよねえ。まず私の事どっかにいってて上品でおしとやかになれないのよねえ。だから私の気持ちがわかる人がいいよねえ。
おしとやかに丁寧を重ねるために
私がおしとやかに丁寧を重ねるには 自分のやる事をやっていくしか考えられない。 自分がやる事をやるのに どうしても邪魔になれば 迷惑な邪魔なものを選択して踏み倒していくしかない。 それは私がおしとやかで丁寧を重ねられる自分の防衛策である。 つまりお互いやる事やんなきゃ、 おしとやかで丁寧を重ねられない。 おしとやかで丁寧はやるべき事をやると両立すべき 必要不可欠なものだと私は思う。
私が真面目に考える対象にしたくない人
他人にストレスを与えて喜んでいる悪魔みたいな人。都合よく自分の事がどっかにいってて自分の世界が成立してないため、話にならない人。他人と自分のさかいが都合の良い、迷惑な人。
何かに取り組む時や何かを考える時
お互い美しいとか、かわいいとか、かっこいいとかは何かに取り組む時や何かを考える時についてくる副産物でしかないと考えるぐらい私の場合、物事に相当真剣になっている。だから私の場合、第一に真剣になれるものが何より大切であると思っている。
我がストレス
泥まみれにしてホコリまみれにしてごみ箱につっこみたいほど好きと言われているぐらいストレスなのである。なんなんだこの薄情な好きはないだろうってぐらいストレスなのだ。意味不明な好きを繰り返してストレスがどんどんたまるのである。なんか生きた喜びなんか吹っ飛ぶぐらいだ。どうしたら健康的で素直でダイレクトな生きた喜びをお互い大事にできるのか?考えてもらいたいよ。何か真剣に善悪突き詰めて考えると我が調子まで狂ってくる。もううんざりだ。
我がストレス【2】
好きだろうが面白かろうがカッコよかろうが私の出来る事を黙々とやるだけだ。私が黙々と出来る事をやるのためには発言する感情がはげしすぎる。つまりそれで私はストレスがたまるのである。私は生きた心地がするから黙々と出来る事をするのであるのに、発言する他人の感情の激しさにより私の中で渦巻いた過程を経て私が出来た内容も私の中で色あせてしまう。トータルで私の人生を考えれば、生きた心地とか生きた喜びとか生きた感動とかもっとたくさん感じても良さそうなのに、現実は極度の激しいストレスが充満している。本当におかしな話だ。多くの人に感謝されてもおかしくないのに、こんな目にあわせる世の中が信じられない。
私の夢
風流で風情があり、心が豊かになるような、私が大切だと考える事柄を探し出す人生の旅に出たい。自分勝手で他人にストレスを与え、尚且つ自分をかえりみない。そんな世の中にこそ人に大きなインパクトを与える事柄が必要なのだと私は思う。そんな夢を共有できる人こそが私には必要なのだ。果てのない夢でもどうせ生きているのなら大きな夢を追いつづけたい。そんな夢のためならば夢を共有できる人と共に生きていけそうな気がしている。
理想の相手を思い描き過ぎないべき
あんまり理想に、はしっても現実に存在しなければかえって危険だ。現実にいる人を観察して一緒に行動してみた方がいい。縁のない相手と比べるのも危険だ。人間いろいろな面があるのだから縁がありそうな現実に存在する本人のみに対してうまくやっていけるか考えた方がいい。理想は現実と異なると危険なのだ。だから現実に存在する最低でも話が出来る人間とうまくやっていけるか一人一人ケースバイケースで考えた方がいいと私は思う。
シンデレラ
シンデレラに必要なものは、しいたげられる事でもなく、王子様だけの事を考える事でもない、やる事に従事したために善悪を区別できて人の幸せを願えるものなんじゃあないの?そういう私も、やればやる程、善悪を区別して人の幸せを願い逆シンデレラ気分なんだ。だから私の事をクローズアップするより、シンデレラとは、何ぞやと考える方が近道ではないかしら?王子様はやっぱりシンデレラの方が好きなのだから。
共同作業
賢かろうが偉かろうが美しかろうがお茶目で可愛かろうがカッコよかろうが面白かろうが、そんなものは愛じゃない。どんな奴でも、どこにいても、どんな立場だろうと何かが出来そうな気がしてくる共同作業それこそが愛だ。つまり、他人に対して何かが出来そうな気にさせる共同作業こそが賢くて偉くて美しくてお茶目で可愛くてカッコよくて面白いんだ。
大きな幸福は外見より内容のある中身
確かに私自身外見の好みはあるようである。けれど私自身の人生においてどんな幸せを大きく感じるかはやっぱり外見ではなく内容のある中身だ。どんな奴でも内容のある中身で大きく幸せを感じる事が結局自分の幸せにおいて大切になってくるはずだと月並みに私はそう考えるうちの一人だ。
いろいろな人
通勤時、いろいろな人に会う。容姿のみを考えた場合美しい美しくない、どちらでも私としては平静でジッと見つめていられる人なら他人と私において問題ないと思う。後は他人と私においてどれだけ真剣に物事を共に考えて行動できるかが問題のように思う。話をすれば相手がどれだけ真剣に考えているかがわかる。だからこそ真剣に考えている話は私にとって興味深く面白いのである。
我がストレス【3】
自分勝手で一方通行、しかも人の幸せを考えられない、それでいて自分一人でとある問題でさえ何一つ解決できない。以上のようにここまでくれば不幸としか言えない。自分で打破できなければ、愛なんて入り込む事なんて一生ないだろう。お互いの気持ちの共有、他人の幸せと自分の幸せの共存、自分で工夫できる創造力、それこそを自分の力で打破するしか道はなく、相手がどうだとかこうだとかいったレベルではない。そんなストレスを私自身感じているのである。私には何の問題もないのにストレスを感じる相手にこそ愛なんて入り込む余地のないバカバカしさにうんざりだ。
当たり前
私自身どうなるか?わからない人生を歩んでるのに何で当たり前に好きを繰り返されなきゃあいけないのだろう。ただでさえ不安定な私の人生を当たり前にされるのが怖い。つまり恐ろしく不安なのである。なんか私の人生は何か恐ろしい出来事が待っているような気がしてならない。そんな恐ろしい出来事を合わなくて済む方法があったら信頼できる誰かにスッパアと切って捨てて欲しい。私の人生はこれからも将来も当たり前ではない。だから私にとって他人の過信した当たり前ほど恐ろしいものはないのである。
「好き」だけの大事に思えない話
「好き」や「嫌い」だけで誰が大事にしたいと思うだろうか。 私には大事に思えないつまらない話にしか聞こえない。 本人がどれだけ大事にしたい部分を持てるか考えるほうが 本人や他人が「好き」や「嫌い」だけを繰り返すより、 私が理解できれば、よっぽど共鳴できると思う。 他人がそんなに「好き」や「嫌い」だけで共鳴できるなんて 私は理解できずストレスたまる一方だ。 結局私は「好き」や「嫌い」だけでは共鳴できない。
「好き」だけの非生産的な話
「好き」いわれるだけでは私が何か生産的な事はできない。 ましてや「好き」や「嫌い」だけで世の中が語れるほど私には単純には思えない。 どうしたら我々人間が生産的になれるのか 男も女も真剣に考える必要がありそうである。 我々の生活に生産的な活動ができなければ 男も女もただの幻想をいだいているにしか私には思えない。 「好き」や「嫌い」が妄想にならないために 日常生活に生産的な活動が必要なのだと私は思う。
私が真に望む関係
みんながいるからいろいろ何かが出来る。そんな関係でいたい。ただ好きだ嫌いだにこだわって繰り返すようでは一人で何かが出来るように生きた方がましだ。我が子には私が出来るから我が子も出来ると確信してもらいたい。我が子に限らず私が出来るのならあなたにも出来ると確信してもらいたい。みんなの力を借りて科学技術を超えて総合文化を目指したい。例え私が実現しなくても、誰かにバトンを渡したい。一人では決して出来ない、みんなとなら例え私が応用について出来なくても基本だけでも何かが出来るそんな能力を身に付けて発信してみたい。結局みんなとなら何かをなして生きていける関係を私は真に望んでいるのだ。(備考:ドラム、太鼓、敦盛「舞」、盆踊り、華道、茶道、書道、俳句、短歌、物理、コンピュータプログラム 等。)
私自身の本分
他人に好きだ嫌いだ言われるより自分が何か出来る事に徹する方が幸せである。他人に好きだ嫌いだ言うより自分で何か出来る事が増える方が幸せである。好きだろうが嫌いであろうが、誰かとともに何かが出来る可能性こそ私は常に見失いたくない私の大切な要素なのである。つまり何があろうが私自身の本分を尽くす。それこそは自分で最大限何かが出来る事をする事なのである。
幸福論
他人から怖い嫌いと言われても世の中のために自分の出来る事を最大限していければ信頼できるし簡単に人を裏切らない。つまりそこに愛が生まれるのである。一方、人のやる事や発言にいちいち調子を変えるようでは信頼されないし疲れるしうんざりする。だから好きだ嫌いだ繰り返した所で幸せになんかならない。不幸になるだけだ。何があっても出来る事をする力こそ揺るがない安定した幸せへの道だ。
どんな幸せを望んでいるかが大切
相手だけを評価するより自分がどんな幸せを望んだ上で実現する相手なのかが大切なのではないだろうかと思う。私にとっても相手にとっても同じだ。面白い、好き、美しいを繰り返され、そんな言葉だけで幸せがやってくるように思えない。 結局全く幸せが実現する気がしない。一体どんな幸せを望んでいるのか理解できない。私にとっても相手にとってもせめてどんな幸せなら大切にしたいと思えるのか考える必要があると思う。
素敵な気持ちになる
持ち前の行動力でやる事やって人生を楽しみ謳歌出来るからこそ話をすれば素敵な気持ちになれるのだと思う。一番の基本は毎日の生活をどれだけ率直でまっすぐな気持ちで楽しみ謳歌出来るかが大切な人間の要素である。それが出来る人間こそ素敵だと思え人を素敵な気持ちにさせるのだと思う。
心が豊かになる自分のために
世の中結果ばかりを厳しく求めて遠回りな苦労をする事を避けて多角的な発想が出来ず結果のみを求めて自分勝手な主張で幸せになれるとも思えない。要するに自分の視点でしか考えられないで幸せになれる気がしない。幸せには他人を尊重でき他人の幸せを共有できる心の豊かさが必要である。他人を尊重できず他人の幸せを共有できないで幸せになれるはずはないと私は思う。私が望む事は心が豊かになるようにしたい。その結果他人の幸せが私の幸せになり私の幸せが他人の幸せになって他人を尊重したい。心が豊かになる自分自身のためには結果を求めるより、他人の果実より、自分の苦労を繰り返し自分の果実を成熟させる事の方が大切であり、なおかつ効果絶大だと思う。
希求する世界
好きな人が愛らしく、いとしくなれるような世界になってくれないかと思う。競争より、創造性あふれる、または豊かさが満ちあふれるそんな生産性のある愛がより良い世の中になっていくんじゃあないかと私は思う。
求め合う二人
私が好きな人に求めるものと好きな人が私に求めるものがハッキリしたらお互い幸せになれるだろうと私自身そう思う。私自身は求め合うものが何なのかよくわかっていない。ただ漠然と二人が出会えば素敵な気持ちになってみたいと考えるのみである。お互い求め合う程の人間関係のために私は何ができるかもわからない。結局私のやる事は私の話を真面目に聞くかつ私に話をたくさんする、この二つが今の所私の判断基準なのである。
類は友を呼ぶ
「この世界の真摯な現実感、精神の豊かさ、何かに取り組む緊張感」 私の好きな人にあるような気がするものである。 ひょっとしたら私にもあるのかもしれない。 そんな「この世界の真摯な現実感、精神の豊かさ、何かに取り組む緊張感」のある所が 永遠に私なりにこたえつづけたいそんな気持ちになるのである。 なんとなく類は友を呼ぶ気になる。私が普通に振舞えば、何となくそんな他人の 「この世界の真摯な現実感、精神の豊かさ、何かに取り組む緊張感」が 伝わる気がするからである。だから逆もあるのかもしれない
私の本心
私の好きな人は今頃幸せだろうか?純粋な気持ちを大切に出来ているだろうか?私の望むことは私より好きな人が望む幸せが実現することである。なぜなら私より純粋な幸せを知っている気がするからである。そんな好きな人が幸せでいる。世の中にこんな重要な事はない。逆に善悪の判断できそうにないトンチンカンがどうなろうが私は興味はない。それが私の本心だ。
建設的な言動と行動
私の半生は建設的な言動と行動が伴っていないのだろうか? どうして非建設的な話が私に聞こえるのか理解できない。 階段をのぼるように日々努力しているつもりである。 その方が私の生活上で楽しいと思えるからである。 なのに毎日非建設的なつまらない話を聞いている。 そんな努力もせずに幸せで楽しいと思える日がくるだろうか? そんな事は私にはありえないと私の人生の中で確信しているのに やはり非建設的な話が聞こえるのである。 私は極めて建設的な言動と行動をともにして数々の奇跡を起こしたはずである。 その私は非建設的な言動と行動には全く興味なんて持てない。 非建設的な言動と行動はつまらないし、どうでもいいだけだ。 特に話の内容が私と何かが出来そうも無い奴の「好き」なんて これ以上の非建設的な言動と行動はないと私は思う。
大天使ミカエルと女神
この目標が私の人生の目指す勢いである。 将来の純粋な女神になれるように私自身が相互努力に努め、 私がメルヘンのピヨ吉になって 純粋な気持ちで私が、がんばれる将来の女神を求めている。 つまり建設的なこの純粋な気持ちをどれだけ高められれるかが私の関心事なのである。
愛について確信を得るまで話し合う
結局私と相手が女神と大天使ミカエルになるまで 時に徹底的に時に冷静に時に熱く、愛について確信を得るまで話し合うしか 方法がないのではないかと思う。 私と相手がそこまで話し合えれるかという所が 将来に女神と大天使ミカエルになれるかの分水嶺な気がする。 私はとことんまで真剣に話が出来て 自分の気持ちをしっかり話せる人を求めている。 そんな会話さえ物理をやるような会話がしたい。 物理やっているのか愛について考えているのかわからないぐらい 考えるしか私が出来る事は他にない気がする。 人間結局やる事やっていかないと幸せはない。 誰かのせいで世の中が良くなるはずだと考えるより 自分が世の中を良くすると思わなければ幸せにならない。 つまり自分の可能性のパイの一つを示す必要がある。 つまり愛についても同じである。 個々のカップルで自分の可能性のパイの一つを示すしか 幸せにはなれないと思う。
女性の不思議さ
最近、テレビ見てて好みの女性が映っているような気がするけど 何かが自分の心に届かない気がする。 テレビに映っている女性で大事にしたいと思う事もあるけれど どうも大事にしたい気があまり起こらない。 やっぱり大事にしたいと思える内面も大事なのだろうか?なぜかわからない。 どうも私の心にヒットしないのである。 女性の内面も外面も不思議なものである。
男と女
男と女は 方向性と集中力と持続力だと思っている。 得てしてどこか三つの力が欠けているから へんてこな心を持ってしまう。 もちろん人間だから そんなに三つの力を使い続けるのは難しい。 だからこそ 適度な三つの力を有効活用しなければいけない。 女が男にストレスを与えるのも 男が女にストレスを与えるのも 三つの力を有効活用してない証拠である。 もしくは三つの力が欠如しているか もしくは三つの力が安定していないか ケースバイケースだが 私の幻聴の主も 三つの力がどっかおかしく 心がだいぶ異常である。 もう止めて欲しい。
「好き」の意味
私には理解出来ない。 本当に好きなら 自分の事より 本人が幸せかどうかの方が大切なのではないか? 私の幸せは 「好き」といわれる事ではない。 真面目に物事に集中出来る事である。 私の好きな人も 私が幸せに出来ないなら 本人が幸せになって欲しいと切に願っている。 今の現状は 私は幸せではないし、 毎日くだらない理解出来ない「好き」という言葉にストレスを感じている。 女の「好き」という価値がどんどん私の中で下がっていく。 一体何がしたいのか理解出来ない。 私は幸せになるように努力するし 好きな人も絶対幸せになって欲しいと思うし そのためなら自分が不幸になってもそれが平和につながると思っている。 自分を犠牲に出来ない愛なんて この世に存在する気がしない。 自分だけ得をする愛なんて存在するのか 教えて欲しい。
原石をみがかない女
私自身、もうすでに過去の遺産で生きていけると思うのですが どうして女性は宝石を欲しがって原石をみがかないのでしょう? なんか女王様と違うんだから原石みがいて働かないと宝石は手に入らないのと違う? 私なんかみがいても精神すり減るだけなんですけど なんかおかしいよねただで宝石は手に入らないのに 宝石がいいなんて そんなに宝石がいいなら男の原石みがいた方がいいよ。 みがき方が足らないだけだよね。 私は十分ある女性に見つめ合って手握ってもらって愛していると言われれば それだけで抱きしめて生きていけます。 もう私は宝石もみがけない馬鹿な女なんてどうでも良いです。 わらわらとたくさんしがみつかれても、つきあいきれない。 十分私はまにあってます。 希望を持ちたいなら原石をみがいてください。 それが無理ならみがき方を学習してください。 それが無理ならそういう運命だと思ってあきらめてください。 それが女王様でないサダメです。 それにしても、宝石が欲しいけど努力しないそんな庶民なんているんですかね。 いたとしたら頭がとんでいるよね。 相手にしたくないですけど、毎日宝石を欲しがる話ばかり 私は庶民だから聞いてると腹立ってくるしストレスはたまるしうんざりします。 私をそんな気持ちにさせて当の本人は幸せなんでしょうか? なんか根本的に存在そのものが間違っている。 自分だけ幸せになって幸せでしょうか? 私には理解できないです。
口喧嘩の要領
私は子供の頃はおせじにも おとなしいというより手当たり次第、口喧嘩はしたし、理解出来るまで話したい方だった。 だけどずっとそれが続かなかった。 話をしても通じない事もあったし、自分の思った事より相手にはもっと大切な事があった。 もちろん相手に大事な事が私にはどうでもいい事もあった。 口喧嘩の中には相手に理解されなければ 結論言って後は黙ってしまう事もあった。 そういうコミュニケーションの要領を得て もしかして一番私が効果的な方法を選んでいるのかもしれない。 だけど、あんまり自分がそんなに賢いとも思えない。 だけどそういう経験が背景にある気もする。 だけど基本的に信頼出来ない事をする奴、信頼出来ない事を言う奴、相手にしたくない理由のある奴は 自分自身出来るだけ考えないし、ほっとく事にしている。もちろん貸し借りもしない。 そんな私だから変な事言うとかする奴ほっといているだけかもしれない。
平和と戦争
Though love becomes peace, crazy becomes war. 私の幻聴は毎日ストレスである。それこそクレイジーだ、あらそい事は御免だ。もちろん戦争も。 わけのわからん事言っていると平和は終わる。 私は愛を求め平和を求めているが私だけではどうしようもない。 場合によっては私もたたかわなければいけないかもしれない。 しょうもない、つまらない原因を作らないで欲しい。せつに願う次第である。
ジャガイモは大事か?
結局の所 何か大事なものを生産または持たずして 闇雲にお金をふりかざしても 何の説得力が無い。 何か大事なものを生産または持つことが出来れば いずれ生き残れる。 まとまらない利害関係に 終始する暇があったら 何の解決にならない。戦争が起こるだけだ。 大事なものを見いだせる人間こそ 世の中にとって 重要な要素である。
常識と非常識から
常識と非常識が通用しない。 個人主義もここまでくると あきれてほとほと嫌になる。世も末である。 当たり前が当たり前でなくなる世の中を拝見すると 話さえ成立しない。 そう思うと 国と国がうまくいかないのも うなずける。 日本国民間ですら 話が成立しないのだから 国と国でも同じである。 日本国民の現状を知ると あんまり外国の話も笑えない。 我々日本人も 似たり寄ったりである。 そういう意味では 日本人の現状をかえられる人が 世界をかえられるのだろう。
君が愛する僕
何か不思議な気分だ。私に何があるんだろう?こんなに苦しんでいるのに私の何を愛するんだろう?本当にわからない。私のできる事は前進していく気持ちのみである。私が出来ない事も含めて未来に希望を持ち続けて一歩一歩足場をかため挑戦するただそれだけが私のとりえにしか私には思えない。これからも真剣に悩み苦しみ一歩一歩足場をかため挑戦し続けるしか私のできる事はないのかもしれない。
私の考える事
自分自身いろいろな事を経験して過ごしている。だから私が経験しこれまで考えてきた事が蓄積されて今にいたるわけである。私の人生で考えた事がまだあるようなないような、そんな微妙な気持ちでホームページが更新されていく。私が不思議なくらい、昔考えた事がよみがえる事があるのである。もしかしたら私のとりえは考えて行動する事かもしれない。ただし私自身にはそれが絶対的なものとは思っていない。ただ他人にとっておもしろいもののように感じるのかもしれない。私には試験勉強も必要だが試験勉強だけで頭が良いなんて幻想な気がする。もっと人間には大事な事があるんじゃあないかと思う。これからも私が気づける最大限の事はホームページで残していきたいと思う。
私の世界の中
私の世界の中で他人の気持ちが表明される。明らかに私の世界の中では他人の気持ちより私の事を考える方が大切である。明らかに私の世界では他人の幸せより私の幸せの方が大切である。何で私の世界で私の事や幸せを考えさせないのか明らかに不自然で無神経でイカレテル。こんな事が許される法治国家が信じられない。人の体を操作するなんて何でもアリのような恐ろしさだ。現実感覚のないイカレテル奴に何を教えても無駄だと私の人生において明らかである。まともに話なんて通じない。お手上げである。
めちゃくちゃ
幸せになれないものを 応援する気も起こらない。 生きていけないものを 話する気も起こらない。 自分の話を聞けないものを 一緒にいたくない。 私のことは間に合ってる。 それでも私にこだわって 幸せになれないし生きていけないし話にもならない。 もう私以外の男性を探すしか 幸せになれないし生きていけないし話にならない。 それぐらい常識で判断できないのか 理解に苦しむ。 私一人で大勢がどうにかなるとも思えず。 めちゃくちゃである。 道理が通らない。
現状と環境
私は現状と環境に不満である。 それなのに今のままで良いなんて 既得権益の何ものでもない。 私にとって何が良いのか考えてくれない。 自分が生きていけるように 自分で考えるしかない。 話の出来る人がいない。 大体人間社会だけで問題が解決できると思うだけ無理である。 我々はなぜ生命体が地球にあって 何で生きているかさえ理解出来ていない。 そらあ人間社会で難しいことを考えることがあっても 肝心の問題は棚上げしているだけである。 だから全てを考えていると思っているのは欺瞞である。 だから自然にまかせる方法しか人間の手段としては正常である。 私自身 神にまかせた 自然淘汰しか思いつかない。 科学者は神の法則を見つける事に満足するが 人間社会の言う通りと神の法則は 私自身程遠いと思っている。 それが普通の見解である気がする。 だから根本的に人間社会で解決する事なんて本当に小さな事なのである。
愛が欠如しているから幸福に程遠い
もっと人間がプラスに働くように 発言出来ないのが理解できない。 マイナスとプラスの計算もできない。 もっと自分の発言に愛があるのか 考えて発言すべきである。 その場しのぎの発言で 本当に愛があるのか疑わしい。 愛があるのか無いのかぐらい 常識で考えられる。 そんな事も考えられなければ どう考えても 幸せや幸福なんて程遠い。 今回は私は当たり前の事を 言っている。
話の道理と未熟
話が通じない。 これ以上話続ける必要が感じられない。 道理の通らない相手は 相手にしたくない。 何を持って自立して無いとか未熟とか 言うのか理解できない。 そんな事言える立場が うらやましい。 立場の差しか感じられない。 ろくな人生でもないのに 良くそんな事を言える心境なのか 神経麻痺してる。 そんな奴の話なんて 聞く必要無い。 あきれて物がいえない。
無意味な会話
他人と違う事に私は肯定的である。 だからこそ私に出来る事がある。 みんな同じなら個人的価値なんて無い。 会話の通じない すれ違う話相手には 無駄な努力はしない。 何を言っても言われても 意味が無いし成立しない。 そんな話を取り上げたら 真面目に建設的に生きていけないし自分の現実を見失う。 だから自分のやることに誇りを持ちたいし 自分と違う他人のやることに敬意を示したい。 そういう風になる会話がしたい。
謳歌できれば良し
どうしても手に入らないものを求めても人生において、つまらないだけだから、つまらない奴のようにしかうつらない。だから自分の置かれている状況下で多様な価値観のいくつかを謳歌できれば良いと私は思っている。
川の流れのように
正直時々私自身が変調するため体や頭に自信が持てない。こんな私には失敗しようが成功しようが何か行動する事で私の中で何かが明らかになる事実こそが私が大切にしたい事なのである。だから我が人生は川の流れのように何かが明らかになる事を信じてやる事をやるだけなのである
川の流れのように【2】
私自身毎日、川の流れのようになぜか気持ちは変化する。いつまでも同じ心でいるなんて、それはつらい事だと思う。一日一日川の流れのように新しい気持ちを育んでいきたいと思う。
我が体重への関心
自分自身体重が重い故に自分の体重に対する関心が高い。私より体重のある体の大きい人を見るとああゆう風になりたくないと自分の体重が気になる。その一方で自分が体重を気にしなくては今の体重を維持出来ない状態である事はまぎれもなく現実である。テレビで大食いなんてやっているけど世の中にはうらやましい人がいるもんだと感心するが私にとって体重のある体の大きい人と代わりばえしない無神経な人にみえるのは私には食事に関して少しでも神経を使っているからであろう。いずれにしても適度な神経の使い方を我が人生に求めていきたいし他人と適度な神経を使える共同生活がしたいと今後も願っている。
他人の幸せ
何回春(2009/3/19)が来ても自分が幸せに感じない。 そういう時は他人の幸せを望みそれを私が喜ぶ事が 私にとって唯一の救いのような気がしている。 本当は我が子供でもいれば私の希望の星なのかもしれないが 子供自身が重荷なってしまうかもしれない。 だから我が子供の悩みや喜びぐらい共有できればいいなあと思う。 私は真剣に生きる人の話が好きだ。 真剣に生きる人がもし幸せだと感じたら それがこの世の大切な部分だと私が喜べる気がしている。 つまりそれだけで私自身が救われるんじゃあないかと思っている。
ツイッターから

短歌抜粋--->> 何となく行動すれば許される生きていくのはそんなものかな 行有 


/*
残業出来るかで評価ではなく
成果物があるかではないのか
結果を重視しなくて幸せになれるのか疑問だ。
*/

幸福とは何ぞや
わけのわからん主張を繰り返して 自分の生きる道を探すのもどうかと思う。 我々の幸せは 大体こうだと言える道にしか存在しない気がする。 確かにわけのわからん主張の中に 自分が生きられても 周りと整合が取れないのだから 続かないのではないかと思う。 そんなに わけのわからん主張でいろんな生き方が出来て 良い結果が待っているような 気がしない。 良い結果とは 大体こんな事が幸せだねと言える所にある気がする。 私の方は わけわからん事言われてパニックになるが 時間をかけて 全体的に整合が取れない事に気づく。 そしてそれではいろいろな生き方が出来るかもしれないが 最終的に幸せになれるか疑問に思うのである。 私には その場しのぎの幸せより 長続きする大体の幸せの方が 生きていこうと思える気がする。 生きていこうと思えるから幸せなのかもしれない。
自分で決断する事
どんな時も「自分の力で自分自身の努力を積み重ねて証明するか、あきらめるか」問われている。他人は人の人生を決める事が出来ないから自分の人生は自分で決めるしかない。自分自身の努力を証明するか、あきらめるか自分で決められないで他人の話をした所でバカバカしいだけだ。自分自身で自分の努力を証明もせず、あきらめもせず中途半端な対応しかしないから他人も私も対応できないで苦しんでいる。本当にこんな迷惑な話はない。自分の人生は自分で決めてください。どんな時も「自分の力で自分自身の努力を積み重ねて証明するか、あきらめるか」問われている。私自身どうしようもなく何度もあきらめてる。自分がすべき事としてまたは自分のために、どうしても無理ならば何度もあきらめた方が肝心である。
棚上げする自分のために
これまで私の人生の中で頻繁に物事を棚上げしてきた。何も最初から一から百まで挑戦したわけではない。私自身今までも今も私が出来る最善を心がけているもののどうしようもない事だってあったのである。あんまり、すべて完璧にやろうとまでは考えていない。息をぬく所は息をぬいて適度なバランスを求めてきた。棚上げした事を他人が解決しようが自分が解決しようが特に意味はない。みんなが解決したという意味でみんな同じである。だから結局、自分自身の人生のためには完璧よりも棚上げした中でどのように生きていくかが大事である。
今の所めぐまれない私(2009/06)
今の現状に私自身満足していない。 今までいろんな事をしたけれど すべて今の現状に反映されていない。 だから自分のした事がどれだけ影響を与えたのか 全く理解していない。 自分がやる事やる一方で今の現状に反映されないのだから 不安に感じるのも無理が無いのではないかと思う。 だから結局今の状態に満足しないのである。 自分がやった事ぐらい現時点で評価できないものかと思うのだが それが私の現実なのだからしょうがない。 みんな私のする事を無視したいらしい。 だから薄気味悪い嫌な感じはどうしようもないのである。
主体性と客観性
自分自身に主体性と客観性を持たせるには 自分のやる事に自分の判断で何らかの妥当性を問う必要がある。 この世にはそういった機会を得る事が我々にとって人生の生甲斐につながる。 なぜなら自分のやる事において主体性と客観性の反復の中で妥当性を問えば いろいろな工夫やいろいろなアイデアが生まれるからである。 また自分自身に主体性と客観性を持たせる機会は自由な社会の一つである。 だから自分のやる事に対する妥当性が自分自身の判断で 本当に問えているのか考える事は 我々の人生にとって重要な要素である。
自由から生じるもの
私個人的には政治に期待しても仕方ないのではないかとそう思う。 限られた現在の資産を運用するのがせいぜいで 先のわからない未来の資産まで運用はできない。 結局の所、国民感情として我々が期待すべき事は 我々の生活にある程度の自由を持って 今ある資産を未来の資産につなげれる機会を持つことである。 つまり誰かが今ある資産を未来の資産につなげられなければ ただの無駄な浪費にさえなってしまう。 だから可能性のパイの一つとして誰かが未来の資産につなげるために、 我々国民がある程度の自由な機会を希求すべきである。 結局、現在の資産だけを考えるのは国民感情としてナンセンスである。 未来の資産の創造こそ大事である。
政治を運転して目指す目的地と自由
目的は政治家だけの問題ではない。我々だって常に漠然と抱えている問題である。 目的は解決しないかもしれないし、突然解決するかもしれない。 だけど常日頃、自由な漠然とした思いを何らかの形にしようとする力が必要である。 そのためにはどんな世の中にしたいか、つまり目的地を考えることは重要である。 目的地があれば自由な漠然とした思いがある程度集約するからである。 結局、いろいろ目的地を変更しながら自分のやりたい自分の指針を得ることができる。 我々には自由な発想でそういう様々な目的地を最低限政治に求めても良いと思う。 なぜなら自由とそういう様々な目的地が我々に潜在力を与えると思うからだ。
縛られない自由な可能性
いろいろな他人のいろいろな話を聞いて 些細な可能性でも大きな可能性でも結びつける人になるのは なかなか難しい。でもそんな事が出来る人こそが仏陀なのだと私は思う。 特定の人にこだわらず、特定の考えにこだわらず、 無やら空となり謙虚に真実を見通そうとする。 自分の追及した真実さえこだわらない。 常にトータルで何が可能か、無やら空となり謙虚に判断し どんな可能性をも模索するそれが仏陀なのだと思う。
色即是空空即是色
仏陀が本当に悟りを開いたのか疑ってしまうぐらい 私は悟りの世界に程遠いと思う。 ただ自分の中で悟りに一番近い状態は 夢中で何かを考えて行動している時である。 その時はつらい事もなく自我も飛び越えてこの世界の真実にせまろうとしている。 私は座禅が出来ないしやろうとも思わない。 この世の真実を見極めるほうがよっぽど理にかなっている。 ただし、本当の真実は永遠のテーマであるから真実に近づいた気になるだけである。 だから私にとって幸福とは 夢中で何かを考えて行動する機会を増やした方が 余計な事を考える必要がなく幸福でいれると私はそう思う。
私の望むべき状態
自分の五感を研ぎ澄まして自分とこの世界を認識しながら何事にも、とらわれないように無になる状態とその状態のうちに物事が整理され何か思いつく状態。これができれば、私の苦が脱するかもしれない。
欲望と神や仏
神や仏を信じ神や仏に誓う機会あれば 欲望が抑制される。 お金になるという暴走でさえ 神や仏の存在を信ずれば抑制される。 神や仏の前では 自分の正義を誓い 自分勝手な行動や発言が抑制される。 そういう神や仏を日本人は有していると思う。
私自身が満足する事
我が親は他人の評価より自分が満足するように生きろと言う。自分の満足するように生きたって自分勝手で自尊心が高く世間から見て自己中心主義でどうしようもない。やっぱり他人が評価しなければ人間生きていけない。自分自身のする事が客観的にこの世界とどう関係しているか明確にする必要がある。自分の頭の中だけでなく、そうやっていろいろな他人と意思疎通を繰り返してこそこの世界と世の中のために自分のする事が明確になると私は思う。結局自分のみ満足しても悟りとは思えない。この世界と世の中のために他人といろいろなものを共有できる人間こそ悟りだと私はそう思う。
積み重ねる
結局 父親とは意見が合わない。 自分の物理だって自分の仕事だって自分のホームページだって 無視である。 それで政治家がまとまらなくて批判している。 無いものからは何にも残らない。 息子のやる事、無視して何を大事にしたいのか理解出来ない。 結局一人一人が自分勝手な事して 積み重なるものが無いなら当然意見なんてまとまらない。 何にも積み重ねた大事なものがお互い共有出来無いからである。
悪人正機
社会や宗教のための悪人正機であって 一個人のための悪人正機ではない。 私にはそう思える。 だから一人一人が悪人正機によって救われる事は難しい気がする。 結局、悪人正機によって社会や宗教全体が救われる。 今現在、個人主義が蔓延している世の中で 悪人正機が通用するのか私には理解出来ない。 つまり私自身が社会や宗教と密接につながっていないためだろう。 私はどちらかと言うと個人で行動する事が多いため 悪人正機は受け入れがたいのである。 私一個人が救われるには 一重に菩薩行しか無いのである。
性善説と性悪説
大学の居心地は 性善説で出来ている気がする。 大学は性悪説だと運営できないのではないかと思う。 嘘や悪事に弱いとも言えるかもしれないが 性善説でしか 科学は発展しない気がする。 いちいち論文で性悪説が横行すれば 科学的発展は阻害される。 それに比べて世間は 性悪説で出来ている。 話はまとまらないし利己主義で嘘も悪事も横行する。 結局のところ 世間はどうでも良いが 頭のいい人が嘘や悪事を働けば 世の中最悪になるという事だと思う。
愛という正義
他人がどうのこうの言う前に 自分が自分の事や自分の役割をしっかりやらなければいけない。 それが大前提なのはわかる。 だけど正義となると 自分だけの世界では生きてけない。 あいつのために生きていこうとしないと 正義にならない。 あいつのためなら何でも出来る。そう思わせる人間がいて初めて正義が成立する。 悲しいかな私の周りにはそういう人がいない。 だから私には正義が通用しない。 私自身正義を求めてやまない。 こいつのために生きたいそう思える自分が私の美学だからである。 多分そういう人間って自分勝手でないし、しっかりしてるし、自分の気持ちを他人と共有出来る 人だろうと思う。
行動した行き先
チャレンジはでたらめでいいからいろいろ行動してみる事が大事だ。そのうち感覚が養われ洗練され知識となっていく。また養われたその感覚があらゆる知識を理解していく。そうして道は続いてもやがていろいろな何かを悟る事があると思う。
アラーの神またはあらゆる神、仏、キリスト、の教えの思し召しかもしれない。




すれ違い

/*
チェーホフのすれ違いも
良くわからない。
少なくとも
家の母親は部分的であるが
受け止めてくれた。
そういう意味ではブラックホールだった気がする。

本当に私を理解してくれる人がいるのか
わからない。
少なくとも
幻聴の女の主は
神様になろうとしてただの疫病神である。
あんな疫病神の話をして何の成果があるのかわからない。
私を理解してくれるのは
人間のような気がする。
すれ違いが起きるのは
神様になろうとしておのおのが主張するからである。
人間でいれば
科学が出来るし詩も出来るし絵が描けるし音楽を聞ける。
神になって馬鹿な判断が正論になるのは
恐ろしい。

私は人間である。
人間として会話する。
それでしか話は通じない。
神になろうとするか絶対とか一方的とか
疫病神である。

私は
真摯な態度でしか
生きていけない人間なのである。
それがわかってくれない人は
永遠にすれ違ったままである。
申し訳ないがそういう人が私の中で邪魔をしている。
会話が成り立っていない。
*/
/*
自分探しより毎日転がして生きる事です。
未来に向かって転がっているうちは自分がいます。
人生そんなものです。
*/


学校と仕事

/*
何も体が丈夫でなくても
元気でいれる。
とにかく頭を使う事である。
絵を描くのも図書館にいろんな写真があるはずだ。
短歌や俳句を作れば気分もかわる。
外国語などの英語や日本語もどんどんインプットやアウトプットすればすっきりする。

私の仕事は残業はあまり出来ない。
それなのに毎朝出社するのは大変である。
それを可能にするのは
家の中では仕事の作戦を練る事であり
会社の中では業務改善のため他人と接触する事である。
会社の人達と話をする事で
スキルアップのキッカケも多々あった。

私自身何で仕事が出来るのかよくわからない。
ゾンビのような気分だけど
頭を使えば
体が丈夫でなくても
意外にすっきりする。
そんな工夫をして日々を転がしていけるかが大事である。
失敗でも成功でもどちらでもいい。
それはそれで楽しいからである。
そういう意味でどちらかに判定出来た方がいいのかもしれない。

結局いろんな事をイメージ出来れば
いろんな事に活用出来る。
別に体が丈夫でなくても
出来る事だと私は思う。
*/


受動的苦しみから能動的苦しみへ(2013.04.06)

/*
私自身幻聴があるので
受動的苦しみの側面がある。
それはただつらいだけである。
何の意味も無い。
苦しみのための苦しみである。

だからそこにいつまでもこだわっていたら
人間がダメになる。
そこから逃れるためには
他人に迷惑をかけない闘争をするしか無い。
能動的に苦しむ術を探さなければいけない。
受動的に苦しんでも価値が無い。

なので私は私で大変なのである。
*/


愛と性格

/*
性格が元々違うとかいう話が良くわからない。
性格なんて一体何か私には理解出来ない。
ひたすらにプラスに働くのが愛であって
性格ではない。

ただ単にプラスに働いていないだけのようにしか
私には聞こえない。
*/


他人との違い

/*
散々な目にあわせといて
私と他人が違うと言われても
そらあ違うでしょうとしか言いようが無い。
男も女も
情けない。
同じような人生を送れないから違うのでしょうとしか
私は反応するしかない。
私をこれ以上苦しめて
どんどん他人と違うようにしか生きられないだけである。
それに気がつかない
男や女は
同罪である。

要するに私は性格が変わる程の苦痛を味わった。
あなたにはそれが無いただそれだけである。
*/



自然について

/*
自然法則に反してまで生きても生きていけない。
我々は自然に沿って生きている。
それが自然科学の鉄則なのである。
*/

現実に
小細工しては
不幸なり
最終的に
自然に合わぬ      行有

現実に
向き合う事は
大事なり
小細工しては
自然に合わぬ      行有




選り好みより夢を求めよう!

私には現状を選り好みするより
夢を実現する方が大切な気がする。
どうしたら夢が実現するのか?
それはお互い建設的な会話と
シンプルなルールと
毎日の少しずつの変化である。
そういう活動が
他人とともに出来るのか
それが大事である。
現状を選り好みしても
将来性は無い。
もっと未来に期待出来る活動が大切である。
私には
自分の可能性と他人の可能性が双方大事だと思う。
誰が悪かろうと良かろうと
自分の可能性も見出せない者に他人に対して期待しても
期待はずれなだけだと思う。
お互いが成長する事が大事である。
私はそれが本当の愛だと思う。



課題と工夫と闘争

私は宗教を信じているのかよくわからない。
何でも便利なものを利用するように宗教があるような気がする。
科学でさえ疑うような行いをした私だから
自分は何でもありみたいになっているかもしれない。

こんな私が主流になるのかよくわからない。
亜流なら亜流でいいと思っている。
私は数字であらわれない人間的直感に頼って生きてきた。
その直感がまた数字になって自分に返ってきて
科学とは何か考えさせられた。

そう言う意味で
科学も宗教も、利用するだけ利用するという意味であんまりかわらない。
科学どうなっても宗教がどうなっても社会がどうなっても
私の正しいと思われる道を進むためにひたすら闘争するだけである。

そんな私が生きていていいなあと思う事は
課題と工夫と闘争である。


過ぎてみれば

悩んで戦っている時が懐かしい
あの頃は苦しかったけど心は熱かった
今では心はさめ穏やかである
仏は悟れと言う
私にはそれが幸せな気がしない
心は熱い方が幸せである
むしろ戦えと言うより苦しんだ方が幸せである
なぜなら心が熱くなれるからである
今では私は持続するそういう挑戦したい高みのものを求めてやまない


悟るより
苦しむ方が
熱くなる
高い次元に
挑戦したい    行有

悟るより
幸せこそは
熱くなる
高みのものを
求め続ける    行有


大きな事と小さな事

戦略が大きい場合と結果が大きい場合があり
戦略が小さい場合と結果が小さい場合がある。
要するに何が大きいか小さいか漠然としているということである。
他人が色々主張しても
私にとっては別問題である。
私の戦略は他人に迷惑かけなければ
その漠然とした中で私としての価値観があっていいはずである。
その漠然さが小さな事にこだわらず
他人の価値観にも左右されず
私としての漠然とした大きな事に思いをはせ
いちいちこだわらない一歩引いた人生を送っている気がする。


タイタンの生物はいるのか?(2013.01.23)

今週の日曜日にやったサイエンスゼロ見たら
何か宇宙人を期待してしまった。
まさか宇宙人はいないかもしれない。
でもアインシュタインでさえビッグバンは衝撃的だった。
我々は戦略を練るしか手段が無い。
ありもしない話をあたかもあるようにするのもおかしいし
ある話を無いようにするのもおかしい。
わからない事は戦略を練るしか手段が無い。
だから事実を述べるのではなく戦略を述べるそれがわからない事への誠意である。
否定も肯定も通じない。
ただひたすらに戦略を語るのである。


プラスに働く

全体が前進するとはどういうことか考えると
全員がプラスに働こうとすることである。
ある人には全体で-1かもしれない。
ある人には全体で+5かもしれない。
それでもプラスに働こうとしないと
全体は前進しない。
前進するためにはプラスに働く博愛が必要である。
単に他人を批判したり他人を冷たくしたりするより
他人のためにプラスに働くことである。
他人のプラスのために
時に批判したり冷たくする事を考える必要がある。
みんながプラスを望める世の中こそ
我々が望む世の中である。
決して自分だけ良ければいいものではない。
良い結果をみんなが望んでこそ
全体は前進するのである。


上から下へと下から上へ

私には上から下へとか下から上へとか意識はしていない。
常にプラスに働けばそれでいいからだ。
プラスに働くには向上心が必要である。
向上心が生まれるには博愛が必要である。
博愛が生まれるにはプラスに働く必要がある。
そういうものを無視して上から下へとか下から上へなどありえない。
結局上から下へとか下から上へなんて結果論に過ぎない。
そんな事にこだわるのは
弱きものも強きものも大事なものを見落としている。


他人の苦しみ

他人の苦しみを知るために
自分は苦しまなければいけない。
それが私にはわからない。

わからないまま生活出来ればそれに越した事は無い。
無益な苦しみは
ただの時間の無駄である。
そんな苦しみを感じるぐらいなら
精神性の高い苦しみを感じた方がいい。
何も次元を落として苦しみを感じる必要があるのか私には理解出来ない。
苦しみの無い人生なんて無いかもしれない。
でも人それぞれ違った苦しみで良い気がする。
何も同じ苦しみを感じる必要が無い。

私にはそう思えるのである。


苦とフェニックスと悟り

私にはこの三つがワンセットである。
苦を知らなくてフェニックスは無く
フェニックス無くて悟りは無く
悟りが無くて苦は無い。
苦からの解放なんて無い。苦とは生きていたら存在するものである。
この三つを抱えながら人間は生きている。
人生この三つが大きいか小さいかの差である。

もし小さいのが嫌ならこの三つを追い求めるべきである。
我々は勇気が必要なのである。
苦に対しても崖っぷちのフェニックスに対してもすべてを真っ白にする悟りに対しても
人間にあるのは勇気しか持ち合わせていない。

我が身に起こっているのは苦でありフェニックスであり悟りである。

実現方向

辺境の地日本の三島で
おしとやかに生きるとはどういう事か伝えられればと思う。
必死でもなくストレスでもなく卑屈でもなく
素直に生きる姿を伝えられればと思う。
結局そういう姿が世界を平和にすると思う。
多分そういう生活がしたいと思えば世界が平和になるのではないかと私は思う。
何も私が特別な事をするわけではない。
そういうほのぼのとした話が出来る生活それがミソなのである。


実現方向2

世界中で火の鳥が見えるのは
それはそれで難問である。
でもそんなにきっかけは画期的な事ではない気がする。
何が引き金で火の鳥になるのか世界中の人は気になるかもしれない。
結局何気ない一手がきっかけになるそんな気がする。
だけど多分それまでには無駄な手を何回も繰り返していると思う。
そういう無駄な反応が自分自身に返っている認識がとれるかが重要である。
それもありふれた自分でありふれた日常生活でだ。
別に特別な世界で特別な自分でいる必要は無い。
友達と話して親戚や家族と話して仕事仲間と話して
返ってくるものから何気ない一手を見出す。
それが火の鳥なのである。

もしそのような異なるリターンを求めるなら外界も必要だろう。
でも外界もありふれた世界に過ぎない。
それに肝を命じて生きる必要がある。

特別な世界や特別な自分から抜け出ないとリターンから学ぶ事やら火の鳥は見出せない気がする。
極めて真っ白な頭で心は熱くという限界なのだから
最終的にありふれた世界でありふれた自分で遠くから見下ろしたような一手で無ければ無理だろう。

ドロップアウトのための老子(2013.05.15)

私は18歳の物理学的悩みを20年間持ち続けた。
結果的にはそれが良かった。
そういう悩みが無い時にはどうしたらいいか?
思い切って悩める世界に入れない場合どうしらいいか?

ただ言える事はエリートの勉強は猛烈に早い分
物事が細かくなる事である。
本来エリートはスケールの大きい事に強いものだが
この日本ではエリートは細かくてスケールの小さい事が得意なのです。
そこに日本で生きていくヒントがある。
ただひたすらスローで勉強していけばいいのだが
それで結果が得られるとは限らない。
悩みや問題に対してスローで取り組まなければいけない。
その悩みや問題をどこで得るべきかは
この世界のどこかで得る必要がある。
学校かもしれないし日常かもしれない。
私の場合は学校生活で学びながら悩みや問題を抱えていったのである。
だから何の問題も無く学校生活を送るのも問題なのである。
今後私が浮かばれる事があるとしたら
私は日本人として珍しいタイプだからだろう。
だからドロップアウトしても有益な珍しいタイプを目指すべきかもしれない。


上善は水のごとし

自分の生きる場をもうけること
他人の生きる場をもうけること
自分をいかし
他人をいかすこと
他人を否定すれば
自分を否定する危険もあること
すべては同じ環境にいること
良くも悪くも環境こそが大事にすべきであるから
率先して環境改善に努めること
それが自分のためになる自覚を持つこと
他人がいきれるから自分もいきれること
自分がいきれれば他人もいきれること
そういう意味で水のようであり空のようである。


従軍慰安婦と私(2013.05.21)

私も毎日幻聴でセクシャルハラスメントを受けている。
従軍慰安婦で問題になるなら
無駄な時間と労力そしてセクハラの私の人生返してください。
もうしんどくて苦痛である。
どうしてこんな状況下で仕事せなあかんのか聞きたい。
私自身もう結果を出してるのに
仕事やらセクハラやら苦痛やら
ともに生活せなあかんのは人権問題で
従軍慰安婦と同じ状況である。
身体的苦痛と精神的苦痛と無法地帯の何でもありの状態は
苦痛の連続とストレスの連続と恐怖の連続である。
橋本市長はその状況を理解していない。
仮に当時は合法であったなら
なおさら苦痛の連続とストレスの連続と恐怖の連続である。
何で話は通じない好きでもない嫌いな女に虐げられなければいけないのか
理不尽でならない。
結局の所話をすれば結果が見えるものを
変なテクノロジーのせいで変な期待と変な誤解をまねいているだけである。
私は変なテクノロジーのせいで気がおかしくなりそうである。
嫌いな女に何回も唱えられた所で
結果は同じである。
それを引っ張っているだからそのテクノロジーの使い方は現実に合っていない。
人間にとって成立しないおかしな技術である。
それを私に仕掛けているのだから責任を取ってもらいたい。
法の下でそんな事が許されるのか私には信じられない恐怖である。


幸福論(2013.06.05)

私とある男が違うとして
何の問題があるのかわからない。
その違いに女が嫌う意味が私には理解出来ない。
その違いでいきていけないわけではないからである。
所詮私は男なので女の好き嫌いには理解が出来ない。
私の立場からすればもっと可能性のある人生なんてたいして違いがあってもそんなに左右されない。
その違いを考えるより
もうちょっと何かしらの努力が出来る方が大切だと私は思う。
だから女の話についていく気はない。
それで幸せになる気がしないからである。

そんな事考える暇あったらどうしたら良い世の中になるのか
考えた方が男にとってメリットはたくさんある気がする。


幸福論(2013.06.08)

あんまりクドイ話を続けても仕方ない。
美しくいきれない者に救いは無い。なぜなら
あんな人となら毎日楽しいとか思う人は
美しくいきれるからである。
人にストレス与えて平然としている奴は論外である。

それ以上他人に対してストレスいっぱいの者につける薬は無い。
それなのに何で女と男の話が永遠と続くのか私には理解出来ない。
そんな会話している時点で幸せはやってこない。
私はそう思う。
そんな話より私はこんな事していて楽しいの方がまっとうである。


幸福論(2013.06.11)

まあ私は男なわけで
女を見る目は男の目であり
判断出来るのは大事に思えるかぐらいである。
なぜなら私はひたすらいろんな事をやってきた。
だから女と話すのも淡々と冷静に話す人間なのである。
物事をうまく運ぶには冷静さが必要だからである。
物事のために集中して女とか男とかあんまり考えないわけである。

それと私にあるのは社会性である。
女にも男にも何かが良いと思う感覚は社会性なのである。
だから
元気が一番だけど
元気には愛が必要というような大事に思える人だったら良いぐらいにしか考えていない。
他に女性問題で思い当たる事があんまりない。
それ以上深く考える必要があるのか理解出来ない。
愛によって私に耐久性が出てくればいいなあぐらいである。
私にとって女性は大事にしたいかぐらいと
女性に何が良いかという社会性ぐらいである。

それは男にとっても同じはずである。
あんまり男達と違いを見出しても
女同士が違うのと変わらない。
結局経験が違うだけで
男も女も変わらない。
だから女性問題も男性問題もバカバカしいだけである。
私の経験が他人と際立っても
男は男である。
元は同じ。
違うのは経験だけである。


美しいシステム(2013.06.16)

自民党の憲法草案だと
美しいシステムは程遠いようである。
美しい以外にも何かアクセントをつける時代に
美しいシステムとは何ぞやという所まで政治は劣化しているのか不思議でならない。
美しいシステムに美しい人間がこの国に存在するのか問われている。
それは途上国にも言えるのかもしれない。
経済的に恵まれなくても幸せに生きれれば何も問題無いわけである。
それでは幸せに生きれないと思うからテロとか戦争が起こる。

もうちょっと美しくなくてもスマートに生きれる報道や社会にならないものかと
あきれてものが言えない。
美しいから正しいはコペルニクスの時代から言われている。
今の時代に必要なのは多少貧困でも幸せに生きていける価値である。
それが世界を平和にする。

時代が進みインターネットで個人が自由に発言出来る時代である。
個人が多少の貧困があっても心が豊かであればとか才能があればとか
いろんな長所があれば個人の長所がいきる可能性がある。
持つべきものは個人の能力である。
それは別に豊かだから才能が持てるもののみとは限らない。

弱いものだからこそ権力に抵抗するのではなく
周囲の環境改善から
弱いものだからこそ本人が幸せに生きていけるのを示す事が世界平和なのではないかと思う。


人への信頼か?知性への信頼か?(2013.08.01)

かつて
私は宇宙物理が専門だったので
私自身がどうのこうのから離れた議論を経験した。
素粒子や原子核の専門の人だって同じはずである。
自分がどんな奴だって素粒子や原子核の議論が出来たのである。
そんな手前
私がどういう奴かと私の知性は別評価なわけである。
仕事も同じである。
いくら私の仕事を評価しようが私については別評価なわけである。
なぜなら仕事自体が知性への評価他ならないからである。

結局の所
知性の評価はどんな奴だって参加できるものなのである。
知性の評価イコール自分の評価にはならない。
知性の評価は個人と別次元にある。
どんな奴だろうと対等に話せるのが知性の評価なのである。

知性の評価は
どんな奴だろうと対等に話せるのに
思考をとまらせるものがある。
人を見て判断する事である。
それがなぜなのか私には理解できない。
知性の評価がその人には出来ないのか?そういう能力でしか生きられないのか?
たちの悪いことに自分と同じ人を見て同じ人と同じ考え方をしているのに気づかないのである。

いくらひどい事をしてきたかもしれないが
その人の気持ちを美しいと思うことも一時の知性の評価である。
それをけなしては茂木健一郎の市川海老蔵のコメントと同じである。
私はどんな人であれ
知性の評価が出来る事も有ると信じている。
だから私は人への信頼より知性への信頼の方が重いのである。
知性は時の運でそんなに沈んだり浮かんだりしないそう信じている。
知性は強固なものだと思いたい。

往々にして人への信頼に重きを置いている人は
知性への信頼に乏しいのではないかと疑ってしまう。
知性とは何か議論が欲しい所である。


悪人正機(2013.08.01)

この時代に私は悪人正機なんていらないと思ってた。
けれどその考えを改めなければいけない。
この世の中で
どんな人に対しても
悪人正機を見つけられない人にこそ悪人正機が必要である事に気づかされた。
私は自分の知性でそれぞれ個々に判断するが
そうじゃない人が世の中にいるという事を思い知らされた。

その人全てを否定する人がいるという事にショックを受けた。
その人だって懺悔し美しい場面があるはずである。
それさえも否定する人がいる事に悪人正機の必要性を感じた。
今でさえ是々非々で判断出来ず悲しいけれど悪人正機を唱える世の中なのである。


何事もゆっくりやる (2013.07.04)

得てして仕事も勉強も早くやり過ぎなのではないか?そんな気持ちが去来する。
何で早くしたらいけないのか?それは仕事や勉強も工夫が無くなるからである。
少し気持ちと体力に余裕がある方が人間は工夫しようとする。
法律を作るには
何遍もその法律を唱える時間がある事である。
人に説明する時も
前もって同じで何遍もその説明を頭で唱えて修正する。
弁護士だろうが裁判官だろうが法律を唱えるぐらいしないといけない。
それは医者だろうが科学者だろうが共通する課題である。
だれにでも説明するために何遍も唱え修正しなければいけない。
常日頃自分が何気ない気持ちを文章にしてこそ
いろんな事がそこで展開していく。
そんな事を公務員は現場でしているだろうか?いろんな事を目にしてきて
それを説明しようと努力しているだろうか?何遍も文章にして
この世の現象をいろんな人に説明しているだろうか?
仕事や勉強に追われ
自分の気持ちと向き合っていないのではないか?自分が何を感じているのか説明出来ているのだろうか?
自分の気持ちもないがしろで説明も出来ないそんなんで
勉強ができるというだろうか?仕事が出来るというだろうか?
結局どこもどいつも今何が必要なのかわかっていないから私はこんな身分なのである。
私は自分の気持ちに向き合ってるし説明しようとしている。
毎日仕事も休みも何が私に必要か文章にしている。
そういう努力が他人には感じられない。
それではいつまでたっても少しの効力と無力なままである。
組織に埋没した能力が危機に対応出来ないままである。
いかなる危機にも対応するにはひたすら気持ちを文章にする事である。
その文章を反復して整理する事である。
私一人でも出来るのだから他人も出来るはずである。
それが他人と私の大違いである。
予期しない事に対応するにはそういう活動が必要なのである。
そしてそういう事を何遍も何事もゆっくりやる習慣が感じられない。
だからいざという時に危機に対応出来ず組織に埋没してしまうのである。
ゆっくり文章にしてゆっくり何遍も唱えて修正する。それだけで劇的に世界は変わる。
早期教育の弊害である。教育の失敗である。


理解出来ない同じ環境 (2013.10.02)

私の小中学校で悩んだ事の一番手は
みんな同じでなければいけない事である。
そんなの能力違うのだから不可能に近い。
私がいくら真剣に要求に応えても
すべてが無意味になる。
だってみんな同じにするんだから
私に対する待遇はみんな同じなわけである。
何か自然に逆行してる。
大体そんな腐った頭の奴は目のあたりにしてきたので
自分自身あきらめモードである。

話が通じない。
いくら私が社会貢献しようが無意味だと言っているのだから
相手にもしたくないのだが
今に至っても私に迷惑を与える所を考えると
どうしようも無い奴はどうしようも無いのねとしか言いようが無い。

能力も違えば自然と環境も変わる
それって普通だし自然だよね?
私はみんな同じでなければいけない事にものも言えない。
はいそうですか?と言われた通りにするしか方法論が思いつかない。
何か小中学校の時の繰り返しにうんざりするのだが
未だにそんな事言っているなんて世界が狭いのではないか?
どれだけ他人が難しい事やっているか理解してない。
それも他の専門なんて理解出来ない程細かい。
そういう複雑な専門かかえて世の中が成り立っているのを理解していない。
みんな同じにできる世の中ではない。
みんな違う専門を抱えた世の中である。
その一つの専門も、になえない人間に小中学校のみんな同じにこだわっている必要があるのか
理解出来ない。
話が通じないし
私はそれが理解出来ないから私ははいそうですか?としか言いようが無い。


民主主義の勝利 (2014.02.13)

何だか身体障害者の作曲者の件でテレビになっているようだが
他にも作曲しているJPOPも本当に本人が作曲しているのだろうか?
あんまり取り立てて特別なニュースでも無い気もする。
結局の所芸能人って夢を作る仕事であって真実では無いそんな気がする。
だから真面目に考える必要無い気がする。

真剣にテレビ見る気が起こらない。
真実なんて別世界にあるそんな気がする。
学歴社会にも真実なんて無いから別世界にうつる。
真面目にいきている奴はそんな事は当たり前のように生きているそんな気がする。

アイツが駄目なら俺も駄目
では駄目だ。お前はお前で自助努力しろ。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」はそれを民主主義の勝利だと言った。それがロシアとの違いだと言った。
だとしたらテレビと一緒になるのは
止めた方がいいそんな気がする。

トドのつまりはアイツなら何とかしてくれるとも思える自助努力をする事だと
私は思っている。
一緒になる事が民主主義ではない
そういう事が日本海海戦にあらわれているそう思う。


学歴社会と学級崩壊 (2013.10.14)

私は1/2勉強出来る奴と1/2出来ない奴がいるから
世の中が学歴社会にもなるし学級崩壊が起こると思っている。
1/2のバランスがどっちかに崩れる状況が起こりうるから1/2なのである。
私の小学生の時に落ちこぼれている奴がいた。
二人で花札で一緒に遊んでたり二人で野球やったり二人でサッカーしたりした。
花札は今に思えば彼はズルしていたかもしれない。
何となく彼が勝つ事が多かったような気がする。
だけど遊ぶ事は誰と遊んでも同じような気がした。
私には彼が学ぶべき事は勉強以外にもたくさんある気がする。
そういう意味で彼が出来る事を工夫出来て人間らしいと私は思える。

幸いにして私はこのホームページを見てくれれば私は工夫していると思ってくれるだろう。
そんな事が彼にも出来ると思っている。
わかりもしない授業を聞いてる彼からすればどれだけ苦痛か
察するにあまりある。
そういう事を政治や行政はちゃんと把握しているのだろうか?
そういう人とちゃんと話をした事があるだろうか?
何となく教育すれば何とかなるみたいな楽観的な意見は
本当に無駄である。
そういう彼でも工夫出来る。そういう所に人間性が生まれる。

まあ全体を見れば人間が工夫をする事自体が困難さがあるから
私が言う事は理解されないかもしれない。
でも私はどんな奴でも指導すれば工夫出来る事があると信じている。


雑記 (2014.03.04)

私も永遠にくだらない女性の話聞くのもうんざりなので
どうにかヒントでも無いか?色々考えている。
こんな時ぐらいしか考える事無い気もするので
どうか今の現状に満足してない事だけは理解してください。
もしかしたら大した事無い事までどうせなら掘り下げて考えてみようと思う。
つまらない事かもしれないけど結構自分に影響を受けた事が他に無いか
自問自答している。
何か私に頼られても困るんだけど
どうして私がこんな状況におちいらなあかんのか理解出来ない。
もっと楽してる奴他にいるんじゃあないかと文句たらたらである。
でもしょうがないやってみるだけやってみようと思う。

四歳のときぐらいから
水泳をやったらしい。
男性の教官のおびえと深いプールで泣いていた事もあった。
勇気を出して泳いだらとんとんと
私はつらかったけど何とか泳げるようになった。
何か一年早いクラスでやっていたようである。
でもそれを母親に言ったら同級の女の子はもっと上のクラスにいるよと言われ
観察したら扇風機のようなクロールだったのを覚えている。
それが私に良かったのか悪かったのか
つらくても学習意欲は人一倍あったような気がする。

現在は子供に泳ぎ方ぐらい指導出来るので
私の道を同じようにするのも酷な気がする。
でも何か苦労して学ぶ経験は大事な気がしている。
結局その経験が他人の気持ちも理解出来る自分だったような気もする。

でも水泳大会の件は
いちゃもんつけられて
困った。
相手しても理解してくれないのであきらめた。
多分今も平行線なのかもしれない。
そういう意味で話しても通じない人がいるというのが私の結論である。
だから幻聴の相手も私としたら同じ気持ちなのであるが
私はあきらめても相手があきらめてくれない。
結局ここまでずるずる来てしまってる。

エリートにはこの話が通じない。
多分そういう相手をした事無いのではないか?
理路整然と話せばわかるみたいな気持ちが
私には許せない。
そんな奴ばかりではないというのが私の結論である。
多分そういうエリートが私をいまだに苦しめている。

無理なものは無理。
それをエリートも理解出来ていない。
だから問題は複雑化している。
私の中では決着しているのに
私を大事にしてくれない。大事なのは自分の対面だけで私の心なんてどこかに行ってしまっている。

多分エリート自身がエリートとして認められるまで
こんな現象は私の事なんかどっかにいっても
続くのではないか本当に困った話である。

水泳のかわりになる習い事といったら
個人で研鑽出来るものの方が良い気がする。
ボーイスカウトで
アイツが駄目なら私も駄目じゃあいけないと言われた事あったので
そういう意味で自分が自分で努力出来る環境がいいかもしれない。



我が小学生低学年から中学生 (2014.03.04)

私の習い事を並べてみる。
水泳、習字、剣道、ボーイスカウト、サッカー、野球、水彩画、学習塾
すべて小4の夏休みに転校後
水泳と学習塾のみになったが
転校先の宿題の多さに参って水泳も学習塾も止めてしまった。
でも世間の厳しさを知った。
転校先のなまぬるい環境に疑問を感じた。
その厳しさに彼らはたえれる気がしなかった。
でも私には夢があった。
それを実現する活動をした。
転校前の自分は結構充実していて
一日がドラマチックで涼しい教室の廊下で横になるのが好きだった。
疲れて一日が終わり何もかも忘れて明日が来るのが
私の贅沢気分だった。
多分少年時代はタフだったし楽しく過ごしたい少年の一念しかなく
あんまり世間がどうとか興味なかったように思う。

ボーイスカウトの話と民主主義の話は
転校後の小中学校では私はした事が無い。
だけど先生の話を真に受ける生徒もいて
世間はそんなに甘く無いのにどうしたら理解してくれるだろうと悩んでた。
結局みんな利己的で何が正しいのかなんて二の次なのである。
そこに理路整然とした理論なんて通用しない。
だから私はあきらめた。
最後の決断はみんなの多数決である。
それで私は納得する事にした。
何言っても聞いてくれないそう思ったからである。

世の中にはそういう力学が働いている事をエリートは知るべきである。
理論より自分が損か得かしか働かない奴がいる。
そんな奴に民主主義って言ったら多数決ぐらいしか無い。
本当はもっと違うと私は思ってもそんな話は聞く耳無い。

そうやって話を聞かないのに自分の損得で動く奴に
どうやって正解を導けるのだろう。私にはお手上げである。
結局幻聴の女性と水泳大会のいちゃもんつける男性に
話が通じない。無い物ねだりにしか聞こえない。
私は能力無いから得になる事しか目がありませんと言ってるようにしか聞こえない。
説明したって無駄なのは経験済みである。
とりあえず私は説明した。でも無駄だった。
結局得になる事しか目が無い。だから私はあきらめた。


雑記 (2014.03.05)

ちょっと英語を頭の中で発音してみた。
英作文が苦手な方は自分の動作や状態を英語にしてみたらいい。
そのうちにyouとかweとかheとかsheとかitとかtheyとか名詞とかを主語に動作や状態をあらわせばいい。
結構日本語と違うので頭のストレッチみたいな気分転換になる。

自分の時間の使い方はそれぞれ他人と違うだから一律にテストで判断出来ない。
それを同じテストで判断するのだから
それは幻想である。
私がこれまで工夫してきた事は
テストにあらわれていない。
そしてテストなんて評価者によって変わるという事だ。
何も見ずに0点にもできるし100点にも出来る。
評価者を信頼しなければ成り立たない。
でもそんな評価者なんて表に出てこない。
はっきり言ってブラックボックスである。
私のテストの点だってあやしい。

結局テストなんて本人が満足するかしないかにしか成立しない。
それを他人が評価してくれるものだと思う事自体が間違っている。
だから
私はこの世間が滑稽に見える。
本当に地道な世界観を持っている人がこの日本に存在するだろうか?
どいつもこいつもおかしい。
そう私には思える。


参考になる話 (2014.03.06)

あんまり私の話が他人に役に立つのか
私に自信があるわけでもない。
ただ私には出来るという事実である。
私は弱い人間である。
電磁波に幻聴そして精神薬飲んでも
私に出来るというだけである。

学歴のある高収入の人のような強い人間が出来る話ではない。
こんなに困っているのに出来る話なのである。
サッカーも野球も水泳もその他も
日本の上も下も楽をしすぎである。
もっと頑張れる。そう私は応援しているつもりである。


つらいこと (2014.03.04)

人間生きてたらつらいことはよくある。
神に試されてると思うことであり
残された者にとって他人の分まで生きることである。

どうしようもないなら
救世主になれなくても本人の信念を通す事である。
そこに人間の尊さが出る。
小説読んだらそこに胸をうつ人間の信念は
本当に素朴でその人間の生き方が出る。
そういう意味で人間の真価が問われる。

まあそんなにつらいこと無いに越したこと無いけど
もしかしたら
そんな生き方したいみたいなのは
本を読んでるとあります。
本を読み続けるというのもありかもしれません。

何か震災の番組見てたら私に
出来ること無いかなあと思ってチャレンジしてみました。


福島にある原発の件 (2014.03.06)

これから福島にある原発はどうなるのか
予測は難しいと思う。
話聞いているだけで疲れてくるので
地元住民はなおさらだろう。

私の考えとしては
福島の原発が無くても生きていられる線を求めた方が気分的に楽な気がする。
これから福島の原発の件で一喜一憂するのは健康に良く無い。
色んな方がこれからもチャレンジしていく案件に
これからの未来を考えるに福島の原発の件はタフさが要求されると思う。

あえて地域住民にはそのタフさから離れた方が私はいいと思う。

もしこの問題にチャレンジしたい人がいるとしたら
私の人生考えたら
もっとも成功に近づいてる可能性があるように思う。
成功という意味はキッカケを作ってくれるチャンスがあるという意味であり
福島の原発の解決という意味だけではない。
動機のある人間は成功しやすい。
そう私は思っている。


知性 (2014.02.28)

何だか真面目にいきるとはどういう事なのか疑問に思う。
テストで高得点なのが才能と言えるだろうか?
仕事をするのが生産的と言えるだろうか?
なんかうまくごまかされてる気がする。

何だか日本の構造は末期的である。
幻想の中で日本は成りたってる。
日本に必要なのは大多数の新興勢力のような気がする。
そのために努力を重ねようと思う。
秀吉がたくさん必要である。
それも高学歴高収入に負けない知性集団を形成する事である。

それが幻想を打ちのめす。
そういう新興勢力が日本を変える。
IT技術がそれを可能にするかもしれない。
何か今の社会は本当の知性では無い。
そんなものに頼って幸せになる気がしない。

自分のやることに工夫も出来ないで
知性といえるだろうか?
もし自分なりに工夫できれば幸せにいきていけるはずである。
それが不可能だから幻想なのである。

そういう事も先生は指導出来ない。
子供に個々にああしてみろとかこうしてみろとか言えない。
どうしたら子供が色々工夫できるのかそういうキッカケを与えない。

大人のする事は
子供のする事にアレンジしてやることである。
それで子供は要領を得る。

そんなことを出来る大人こそが本当の知性である。


インタビューされたらどうするかを前倒し (2013.10.15)

私の妄想だが
何かインタビューされるシーンが浮かんでくる。
そうするとあんな事やこんな事を言おうと思ったりする。
それをウエブサイトで実現させて前倒ししている。
本当にインタビューされる頃には何も言う事無いかもしれないけれど
結構そうする事で
話題は事欠かないのである。
そういう意味では妄想が話になっている。
ウエブサイトにおいて英語で英作文すれば世界に発信出来る世の中である。
だから世界中からインタビューされているつもりで
一個人が何を発信したいか考えてみるのも
妄想が話になるのも
夢が形に前倒しになるのも
それはそれで楽しいのでは無いかと思う。


簡単な豊かな余力 (2014.03.02)

私の事で問題になるのは
無いものねだりな気がする。
本当に欲しいものなら努力すべきである。
私は私で努力しているわけで
それは私の問題である。
何か公私混同している気がする。
本当に世の中に無いものは努力しか生み出せない。
それを他人の問題にするのは努力が足らない証拠だと思う。

私は幸せにしたい他人がいればいい。
その他人を問題にする必要なんて無い。
そんなことをする前に一緒に幸せにできる努力をすべきである。
私と他人には何の問題なんて無い。

幸せに出来る努力が出来ればいいだけである。
ようはプラスに働く努力をお互い確認できさえすればいいだけである。
そんな簡単なことがこの資本主義では不可能らしい。
学歴も職歴も通用しない身勝手さは
単純な事が成立出来ていない証拠のようである。
幻想の世の中にいると痛感せざるおえない。

私には協力して努力して一緒に幸せになれればいいわけで
そんな簡単な事のように思うのだが
そんな簡単な事でもめてる。
だから何べんもうんざりする。

そんな学校生活や仕事生活は幸せになれていない裏返しで
個人主義が強すぎて利己主義におちいって
結果どうしたら幸福になるのかわからない人が大勢いるらしい。
もうちょっと一人一人がどうしたら幸せになるのか真剣に考えて
勉強や仕事した方がいい。
幸せに生きていない裏返しのように思う。

幸せに生きるなんて私は簡単だと思うのだが
ボケとツッコミのどちらかが足らないとか
目標が高すぎるとか
もっと素朴な幸せを求めればいいわけである。

お互い微笑みながら会話してコーヒーとかお茶とかでも
十分乙で風情を感じる。
なんかそういう余力さえあれば十分お互い満足すると私は思う。

非常に簡単じゃあないのか?
そんな一時が資本主義で成立しない。
勉強も仕事もそういう豊かな余力がない証拠である。


黄金の美 (2014.02.23)

私の幻聴は相手にならない。
それだけはハッキリしている。
共同作業なんて無理である。
落ち着いて話も出来ない。
それでどうやっておしとやかになれるのかわからない。
美しいものには静寂が必要である。
結局美しく無い奴が騒いでるだけである。
二人がおしとやかになれて冷静に判断出来るってどういう事なのか考えた方がいい。
お互いが風情があるのが美しいという事である。

人間は孤独のために愛を与える人間にならなければいけないらしい。
何かを成し遂げるには孤独なものである。
特に世の中に無いものならなおさらである。
愛によって孤独にならない気が私にはしない。
孤独に身を投じるこそ愛である気がする。
孤独に対して逃げるなんて愛がない気がする。
孤独でもあえて突き進む理由そのものが愛である。
そんな覚悟があって愛が語れる気がする。
自己防御してそれが愛だというようななまやさしいものではない気がする。
立ち向かう勇者こそ愛がふさわしい。

人生自分の心に静寂があれば
孤独の道なんて屁である。
立ち向かう勇者こそ愛があり孤独な道に恐れは無い。
それこそが大衆が涙を流す黄金の美なのである。


安心と一日の送り方 (2014.03.03)

家の母と父は
私を不安にさせなかった。
それが私の安心感につながった。
小学生低学年の頃を思い出して一日を充実すればいいと思い立った。
それぐらい今は幻聴で不安である。
あえて人を不安にさせた所で信用されないと思う。
だけどそれを止める気にはならない。
自業自得だからだ。
私はそんな道は選ばない。
安心感で私は仕事がしたいそう思っている。
でも私の元の職場はそんなんで無かった。
私の小学生低学年を思い出すと安心感があっても仕事や勉強はできる。
そんな向上心の強い小学生だったような気がする。
何か楽しい事が待っているようなウキウキしたタフさがあったような気がする。
そういう意味で今も向上心はあるし目標もある。
ただ不安な感じが全然違う。
あの頃のおおらかなはじけるような安心感さえあれば
鬼に金棒なんだなあと思う。
家の母と父はそういう意味では偉大な気がする。
決して外界の不安を私に持ってこようとしなかった。
そういう意味では強い父と母だったのかもしれない。

もしかしたらコワイとかいう人は
そういう不安を知らず知らず他人に植え付けてる所が女性にうけないのかもしれない。
少なくとも家の母と父はそんな事無かった。
それで私の小学生低学年時代も今も向上心や目標があるのは
仕事をしている人達と比べて私の方が大きいのかもしれない。
だって仕事してたらそんな目的のために苦労したいと思わない。
私の向上心や目標の方がよっぽど大事である。
大方不安にかられて向上心も目標も小さく安定した給料さえもらってたらいいみたいな所あるような気がする。
そんなんで世の中まわってる。
自分の仕事以上の向上心や目標無くかといって不安な仕事が当たり前なため
私にはそんな世の中でいいのか疑問である。

私が安心して向上心や目標を持てるのは
ある意味異質なのかもしれないが私が存在するという事はそれは可能だという事だろう。
幼少の時からそれも色々な経験が私にあってそれを可能にしている。
でも多少不安があっても生きているタフさは私にも必要な所である。

安心と一日の送り方はそういう我が家の父と母の力にも影響を受けてる気がする。
不安は信頼関係が揺らぐ私にはそう思えてならないだから
私はあんまり他人を不安にさせたく無い。
出来るだけお互い自助努力したい。
不安で仕事する事無いそう思うけど世の中そんな風ではない。

そこが私と世の中のミスマッチかもしれない。


一緒に結婚生活したいと思うか? (2014.03.05)

きみちゃんは
おばさんにも美しい時があったから結婚出来たんじゃあないか?と言った。
それだけで結婚に結び付くのか私には疑問だ。
結局のところ
一緒に生活出来ると思って結婚するんだから
一緒に生活したいと思うかとか
どういう生活になりそうだとか
お互いの可能性も大いに影響しそうである。
二人でいることに積極的に思えなくて
結婚は難しいそう思う。

それをふまえてお互いが美しいなら
私にも二人の関係がよくわかる。
一緒にいると落ち着くし目的意識ももてる共同作業も出来る。
風情ある二人がなおのこと
この生活を続けたいと思えて
結婚出来るように思う。

一緒に生活したいような
何かが無いと結婚は難しい。
私はそう思う。
だから本人達が何が出来てお互い何を満足するのか
会話出来て結婚出来るように思う。

私はそんなに中身のある生活じゃあ無くたっていいと思っている。
何か二人でいたい素朴で尊い理由なんて簡単でもいいと思う。
そこまで二人が会話出来れば
それが結婚の到達点だと思う。

私は落ち着いて会話出来て協力出来ればいい。
人様々だから色んな形があるように思う。


母親の姿 (2013.12.01)

微笑ましい関係って愛がこぼれそうだなと思う。
周りを幸せにする関係でいたいそう思う。
自分だけ幸せでいる関係って微笑ましい関係とは程遠い。
それが母親の姿のような気がする。
子供達や女性にはそういう力がある気がする。
それを応援したいそう思う。
私だけではない愛それが愛そんな気がする。

仮にこの国で女性の総理大臣が生まれるとしたら
何か応援したくなるようなお上品でおくゆかしくて微笑ましい関係を持てる人がいい感じがする。
私がそう思うぐらいだから
男性の総理大臣もそうあるべきかもしれない。


色々なリスクをとる (2013.11.29)

昨日カンブリア宮殿のディズニーの録画を見た。
芸術家もリスクをとる必要性を語っていた。
私も芸術に限らず色々な場面でリスクをとっていた。
物理でも極端なリスクをとったと思う。
別にはずれてもいいやみたいな所もあった。
行きがかり上アインシュタインの立場を取った。
私は量子力学で成功したならボーアの立場をとっても良いと思う。
でも私は相対論でちょっと縁があったので
アインシュタインを信じてみようと思った。
私のリスクの取り方は自分のした事の展開で決める。
何事にも展開がある。その先のリスクを私はとった。
そういう意味で私の場合はボトムアップなのかもしれない。

世の中にはいろんな立場の人がいるだろう。
何事もボトムアップとトップダウンがかみ合えばいいなあとは思う。

ともあれ私のとったリスクは
どうなるのか予測出来ない。
何でリスクをおかそうとするのかというと
現状を肯定出来ない不満が私の中でいっぱいだからだ。
私の心が変化を求めている。
より良い世の中を求めているのだ。

ただひたすらにこの世はおかしい、だから何とかしたいのだ。
そういう心の欲求が変化を求めているのだ。


私の選択 (2013.12.10)

疲れた時に声が聞こえる。
中身が無い話だから余計に疲れる。
勉強してた方がよっぽどためになる。
話聞いたからといってどうしようも無い。
そんな話を毎日するのでたまらない。

もっと話を聞きたい人は他にもいるのに
何でつまらない女の話がいき残るのか理解出来ない。

そんな話を毎日聞いている気分たら最悪である。
無意味、無駄の極みである。
どうしたら、こんな現象を変えられるのか
わからない。
処方出来ない。一体何がやりたいのかわからない。

遺伝子では残せないものもある。
そのトリガーをひいてやるのが
私の役目だが
声の主には何の効果もひいてやれない。
相手は中身無いのだもの。
そんな相手は話にならない。
話になるか、ならないかの判断なんて直感でわかる。
こちらだって
いろんな環境が違えば選択も変わってくる。
そういう意味で明らかに遺伝子で何かでは選択しない。
遺伝子では残せないトリガーのひき方は
自分の置かれている環境条件に依存する。
だからその効果は環境条件によって高いものから低いものまで存在する。

私の環境条件で今の私がいる。
でも明らかに私は不満なのである。
環境条件が違えば明らかに違う選択をしたからであり
そしてそのトリガーの効果も違ってくるそう思うからである。


未来 (2014.03.24)

未来がわからないから不安だというのは私には理解出来ない。
未来に対して希望を持たせるのが上司の仕事ではないかと思う。
それを不安にさせて火車で薄給な状態で伴侶を探せとは何ととんちんかんな話である。
過去の自信があれば未来に希望が持てるそう私は思う。
それを他人を持ち出して例をあげた所で何の参考にもならない。
もっと違う生き方が出来るはずである。
私にはこの世は信じられない事ばかりである。
何様で偉そうな立場になれるのか皆目見当がつかない。あきれて言葉も無い。


仕事とゼロ (2013.08.20)

私は今まで幻聴の苦痛とか
他には
歯の苦痛とか体調の苦痛とか前立腺の苦痛とか
思考回路が変になりそうな感覚とか
催眠術にかかったり
体が焼けるように熱くなったり
いろいろあった。
私の思いは身を捧げて投げ出して生きてきた。
つまりいろいろ追いつめられた。
私の思考がゼロになっても
我が身は何かやっている始末である。

世間の男はそこまでの状態で仕事していないだけである。
自分の身を投げ出してまで仕事していない。
どこかで自分の思考が残って仕事している。
それにつけて
私は知らず知らずに工夫を身につけた。
自分の思考がゼロでもやっているうちに知らず知らずに工夫しているのである。
それは全く私の思考に全く無い事に気づくのである。
つまり転がし方が妙を得ているのである。
やっているうちに解決していくのである。

それもどうでもいい事である。
私は幻聴のために生きているわけでも無く
他人のために生きているわけでも無い。
私は私の事情で生きたい。
私をここまで追いつめた結果である。
重く受け止めてもらいたい。
これ以上私を追いつめていよいよ何も解決しない。
どこまでも迷宮入りである。
それは仏陀の言う通りである。
そういう意味で仏陀の言う事は正しい。
私の受けた苦痛が仏陀に出来たと思えないが
その悟りは真実である。
万民が理解出来ない悟りがあると法華経にも書いてある。
だから迷宮入りでその悟りは真実である。
いくら追いつめても他人はその悟りには至らない事を知るべきである。
だってそんな目に合っていないからその悟りは無理である。 悟りたいと思うなら
私の苦痛を他人が全て繰り返すしか無い。
そんな人間がこの世には存在しない裏返しである。


第二の自分はいらない (2013.11.11)

私がこんな人生を送っているのは
過去の偉人の弊害である。
不幸な第二の自分が生み出さないように工夫が必要である。
その反省無しに
こんな不幸な人生は繰り返される。
どうしたらこんな不幸な事が起こらなくて済むのか
反省が足りない。

こんな境遇ありえない。
それを平気な気持ちでいる事自体がクレイジーである。
そのクレイジーさはどこから来るのか反省した方がいい。
もはや私の問題で無くなっている。
人を不幸にしている他人が問題であって
私の問題なんて皆無である。
他人がどうやっても幸せにならない問題を
私に向けたって私の問題では無い。
それから私を不幸にさせる事自体いかれてる。
私はそれを考える義務なんて無い。

それを何で一緒になって私が不幸になる必要があるのでしょう理解出来ない。
他人を不幸にさせない事から第一に考えるべきで
私には何の問題も無い。
もうこれ以上第二の自分は起こらないように反省すべきである。



見つめ合い
話をしつつ
通じ合う
愛がこぼれて
広がっていく     行有


ちょっとずつ
小さな変化
繰り返し
いろんなものが
いきていくのさ    行有


夢あれば
金が無くても
絵はかける
なるようになる
人生なのさ      行有


何事も
求めるものは
夢である
それさえあれば
いきていくのさ    行有


何気なく
いきているのも
奇跡なり
いろんな事が
不思議なくらい    行有


限界を
超えた所に
悟りあり
及ばぬものは
光とならん      行有


天と地に
いろんな思い
とどろいて
我が身思えば
負けてはならぬ    行有


はち切れん
愛を掲げて
炸裂の
ドロップキック
お見舞いしてよ    行有


願うなら
愛の高まる
方へにと
ドラゴンキック
お見舞いしてよ    行有


切り刻む
愛の名の下
支えにし
ドラゴンパンチ
お見舞いしてよ    行有


風神と
雷神の
狭間に立って
荒れ狂うなか
いきているかな    行有


行く川は
消えかつ結び
絶えずして
思う花こそ
なさばなりなん    行有


我思う
どんな時にも
大切な
心あるなら
いきていきたい    行有


何事も
自然に対し
向き合って
いきていくのも
心ありけり      行有


厄日かな
ハプニングあり
リカバリー
出来うる限り
展開してる      行有


心から
突き進むべき
王道は
成功しても
失敗しても      行有


山道に
虫の音ありて
そばだてる
心あるなら
いきているかな    行有


華やいで
まぶたの中に
桜ある
心あるなら
いきているかな    行有


健康に
気をつけながら
日に当たり
背中押されて
勇気をもらう 行有


日蓮や
江ノ島の洞
闇ありて
浮き立つ波は
何を語らん 行有


静まれば
こたえる限り
心あり
私としても
定かであらぬ 行有


心から
応援したい
人がいる
愛がこぼれる
微笑ましさに 行有


能のある
力あるなら
苦労せず
センスみがいて
はじめて気づく 行有


古酒や
疲れて飲んで
のまれても
いきてるあかし
残せたかしら 行有


清らかな
青空のもと
桜かな
もっときれいに
言わんばかりで 行有


幾重にも
やる事やって
日が過ぎる
やがてそのうち
嘘のようなり 行有



 
未来 (2014.03.24)
参考になる話 (2014.03.06)
福島にある原発の件 (2014.03.06)
一緒に結婚生活したいと思うか? (2014.03.05)
雑記 (2014.03.05)
我が小学生低学年から中学生 (2014.03.04)
つらいこと (2014.03.04)
雑記 (2014.03.04)
安心と一日の送り方 (2014.03.03)
簡単な豊かな余力 (2014.03.02)
知性 (2014.02.28)
黄金の美 (2014.02.23)
民主主義の勝利 (2014.02.13)
私の選択 (2013.12.10)
母親の姿 (2013.12.01)
色々なリスクをとる (2013.11.29)
第二の自分はいらない (2013.11.11)
短歌追加 (2013.10.18)
インタビューされたらどうするかを前倒し (2013.10.15)
学歴社会と学級崩壊 (2013.10.14)
短歌追加 (2013.10.11)
理解出来ない同じ環境 (2013.10.02)
短歌追加 (2013.10.02)
仕事とゼロ (2013.08.20)
人への信頼か?知性への信頼か?(2013.08.01)
悪人正機(2013.08.01)
何事もゆっくりやる (2013.07.04)
美しいシステム (2013.06.16)
幸福論 (2013.06.05、08、11)
従軍慰安婦と私 (2013.05.21)
上善は水のごとし (2013.05.17)
ドロップアウトのための老子 (2013.05.15)
受動的苦しみから能動的苦しみへ (2013.04.06)
実現方向2 (2013.03.06)
実現方向 (2013.03.06)
苦とフェニックスと悟り (2013.02.19)
短歌追加 (2013.02.08)
タイタンの生物はいるのか? (2013.01.23)
大きな事と小さな事 (2013.01.18)
上から下へと下から上へ (2012.12.25)
プラスに働く (2012.12.21)
短歌追加 (2012.12.21)
他人の苦しみ (2012.11.17)
選り好みより夢を求めよう!(2012.11.08)
良い結果が出ると出ない (2012.11.02)
愛と性格 (2012.09.29)
他人との違い (2012.09.25)
学校と仕事 (2012.09.24)
すれ違い_追記 (2012.09.21)
すれ違い (2012.09.18)
いじめと集団行動 (2012.08.17)
自然について (2012.08.15)
精神と原因と結果(2012.08.09)
ゆとりある自由 (2012.07.16)
夢中になるのがコワイ (2012.07.15)
電磁波と催眠術 (2012.07.10)
点と線 (2012.07.08)
愛という正義 (2012.07.04)
説明出来る事実 (2012.06.30)
性善説と性悪説 (2012.06.19)
ガラス張りな進捗 (2012.06.17)
イノベーター (2012.05.17)
たくさんの誰かのための高校と大学 (2012.05.16)
悪人正機 (2012.05.12)
組織論(201204) (2012.04.28)
物理と民主主義(201204) (2012.04.28)
我が半生 (2012/03/17)(2012.03.30)
アイデンティティー (2012.03.30)
ジャガイモは大事か? (2012.03.30)
常識と非常識から (2012.03.30)
発想の源 (2012.03.18)
幸福とは何ぞや (2012.03.10)
ツイッターから (2012.03.10)
実現力と勉強 (2012.02.02)
余計な事は考えない (2012.01.29)
珍しいとかこわいとか理解できない (2012.01.29)
無意味な会話(2012.01.16)
話の道理と未熟(2012.01.16)
積み重ねる(2011.12.28)
愛が欠如しているから幸福に程遠い (2011.12.14)
現状と環境 (2011.12.03)
めちゃくちゃ (2011.11.30)
理論と理想の転がる先 (2011.10.30)
小学低学年の喧嘩 (2011.10.30)
無我と瞑想 (2011.09.17)
病気と救済 (2011.06.28)
社会学の疑問 (2011.06.23)
可と不可のオンパレード (2011.06.22)
「他人のつきあい方 」(2011.06.16)
課題と工夫と闘争 (2011.06.10)
欲望と神や仏 (2011.04.09)
可能性 (2011.04.05)
人を大事にしよう!! (2011.04.01)
男と女 (2011.03.30)
「好き」の意味 (2011.03.28)
たくさんの秀吉 (2011.02.20)
信長について (2011.02.14)
原因と結果の法則 (2011.02.09)
戦争と平和 (2011.02.09)
口喧嘩の要領 (2011.02.09)
集中するとこわい (2011.01.29)
俳句追加 (2011.01.29)
原石をみがかない女 (2011.01.28)

自己紹介(プロフィール)

TWボイジャーは
静岡から出発し、北[札幌]を経て
西の方へ[大阪→山口→福岡]行ったかと思えば
東[三重→名古屋]に引き戻されて
只今、現在静岡にて
ある時は真っ暗蔵之助、ある時はこりゃたま乱蔵になりながら
飯の種を模索中。


「不可能の辞書はあれど、不可能な事象を可能にかえる」
「私は私なので私なりに私をやるしかない」
花のある生活をいろんな人に見てもらいたい私」
「心は心を呼び、発想は発想を呼び、可能性は可能性を呼び、
夢は夢を呼び、愛は愛を呼ぶ途上にある私」
それがwakkii[行有]です。