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Needing words

スキル向上







  1. 一日の中で無理をせず、急がず、慌てず、
    少しずつ前進する事を心がける。

  2. 特別な感情を持たず自然体で少しずつ、人より
    あたりまえにできるように心がける。

  3. とりあえず一日の少しずつの課題を気分転換も
    込めて複数こなせれるように心がける。
    気力のいる課題は順番で先に進めたほうがよさそうである。
    脳に悪いのはコツコツでは無く脳を使わないことである。

  4. とりあえず今日一日を充実させることを目標にする。一日が充実できて、さらに他にやる課題があれば、一日ごとにおこなう少しずつの課題をある他の少しずつの課題に定期的に入れ替えよう。

  5. 現実を直視できるように心がけよう。

  6. 自分の可能性に夢を膨らませれるようになろう。

  7. 気持ちはおおらかで楽しく、天真爛漫、天衣無縫、質実剛健。ただし、ある時に強く行動、発想するためには自分の色を持たなければいけないことにも留意しよう。


トップページ短歌抜粋

ありえない
なんでか起こる
ハプニング
対処できれば
良しとするかな   wakkii 作

今日もまた
一晩眠り
よみがえる
それが続けば
気分良しかな    wakkii 作

休みの日
極たまにでも
求めたい
長い時間を
感じる力      wakkii 作

一日の
何かをなした
感激は
かけがえのない
心地よさかな    wakkii 作

同じ事
いろいろ試し
工夫する
万策尽きて
一休憩よ      wakkii 作

なるように
形になれば
良いかしら
明日には明日の
風が吹くかな    wakkii 作

我が世界
現実にある
別世界
シンクロすると
効果抜群      wakkii 作

ありがたく
ほぼ毎日が
感無量
お天道様に
感謝感激      wakkii 作

いろいろと
日々の生活
進めれば
後戻りせぬ
身に救われる   wakkii 作

すべき事
やり続かむも
そのうちに
心は花に
なさばなりなん  wakkii 作

ある時は
無理と思えど
続いてる
楽しめるまで
辛抱するさ    行有 作

続ければ
自然に出来る
年の功
若い時には
いろいろあるさ  行有 作

習慣を
何かと何か
おきかえる
負担少なく
くり返すまで   行有 作

成果にて
経済あるが
無関心
そんな仕事で
お馬が通る    行有 作

生理的
レジスタンスを
繰り返す
平和あるのか
認識あらず    行有 作

可能性
広げるものは
本のみで
生きていけると
認識してる    行有 作


補足 : 「精神修行(20120429)」

結局自分の事は自分で改善した方が手っ取り早い。
時間もお金の面でも同様である。
問題は自分で自分の改善が出来るかにかかっている。
それが出来なければ時間もお金も必要になってくる。

無理な事をしない。
出来てない事から出来る事を優先する。
それだけでもやれる事は結構ある。
あんまりあれこれやらなければいけないような
強迫観念が強過ぎてコワイのかもしれない。

何よりもまず、しんどくても
毎日か毎週出来るような
マインドコントロールを自分でしなければいけない。
それが出来てしんどく無くなったら
何事も無かったような自然体でいれる。
私はそう思う。

怖いのは平常心で勉強出来てないかもしれない。


・平常心

結構私が良くやる事は
テンション高い時期に勉強しないことである。

何かを買ってテンション高くなっている時は
何もやらない事にしている。

そういう意味で
普通なテンションで勉強することをこころがけてる。

もしかしたら
そこが
怖いとかやさしいの境目かもしれない。
あんまり目をぎらぎらさせて
勉強しないため
そこが他人との違いかもしれない。

普通な感じで勉強するのが私のスタイルである。
何でこうなったかと言えば
その方が長続きするためである。

テンションの上がり下がりがあると
波が大きくなる。
そこが私の最も嫌う所なので
普通な感じで勉強するのである。

そうすると
波が小さくなる。
それが私の最適解なのである。
ベストな状態なのである。

あんまり特別な私とか
思って勉強もしない。
できるだけ波が小さく他人とも影響しない自分を目指して
ごく普通な人間として
活動している。

でも過去を振り返ると
私って天才やなとは思う。
そん時はあんまり手につかない状態である。
そんな思いをしてまで勉強する気は起らない。


ひょっとしたら
平常心で勉強するって
そこが怖いとやさしいの境かもしれない。
私はただ長続きするし他人との距離もとれると思って平常心を採用している。

<--私との比較を追記した。

・私との比較

それにしても私の経歴無視して会話する必要が私にあるのは
いつになったらそんな負け犬根性をたたきなおす必要があるのと同じになっている。

結果が違うのに
同じ状況にはならない。
それを無視するから私が困るのである。
いつになったらそんな事を繰り返すのか理解出来ない。
仕事もたんたんと仕事出来るのに
他人は仕事をしない。
それで残業出来ないからといって何で給料の差が出るのか理解出来ない。

真面目にたんたんと仕事してから
私と比べた方がいいのではないかそう思う。
そんな次元になっていないものを
永遠他人が理解出来ない。

私は極めてたんたんと仕事している。
それなのに他人はたんたんと仕事しない。
ただそれだけの違いしか私は思い浮かばない。

それを何で私なんかがかりだされなあいかんのか理解出来ない。
勉強もたんたんとやれる。
仕事もたんたんとやれる。
結果もたんたんとついてくる。
それで何で私なんかが関係するのか理解出来ない。

<--高校受験を追記した。

・英語

私の中学生時代は教科書以外の単語は試験で出てこなかった。
よって教科書を音読したりして丸覚えで
期末テストや中間テストや高校受験にのぞんだ。

ここでも書くという事が大事だったが
私の中学時代はペーパー試験をとくことで書く事を学んだ。
"書く事=ペーパー試験"だった。
そういう意味ではたくさん書けるペーパー試験を選択すればそれもベストであり
色々組み合わせて書ければいい気がする。

//追記/2015/03/03
英語の掲示板で
補語である前置詞を多用出来るのは
私の高校受験による影響だと思う。
ここで動詞や目的語や形容詞より補語の方が重要情報な事がある。
そういう意味で重要情報は
品詞を問わない。
そういう使い方をして
自由になる。

そう考えれば英語で何を言おうとしているのか
何となくわかる事もある。
品詞だけで重要な情報は判断できない。

私がこんな事を言わなければいけないのが
世の中違うよなと思う。
何のために大学入試試験するのか
真剣に考えたほうがいい。
つまらない競争ばかりして何の脳の足しにもならないのなら
別な路線を考えたほうがいいのではないかと思う。
なんで私がこんな発言するのかというと
誰も頼りになる奴がいないからである。
つまらない競争して消耗している。
そんな事より能力をあげる方が大事である。
それを私が実践して
あきれかえっている。
一体世間は何がしたいのか理解できない。
もうちょっと頼りになる奴いないのか文句たらたらである。

・数学

あんまり良く出来なかったのを覚えてる。
それでも高校は理系だった。
計算が出来れば高校でも大学でも通用する。
でも何より大事なのは証明の論理である。
それは押さえていた方がいい。

今思えば
予習して授業の時に復習するような時間の使い方したかった。

・国語

現代文の文法が苦手だった。
小説とか読んでたけどあんまり点は良く無かった。
当時は古典や漢文はあんまり単語より感性だった。
そういう経験があるので大学受験のセンター試験も感性で通した。
でも時間が足りなくて困った。
そういう意味では単語も覚えて解釈するような準備もしてもいいかもしれない。

・理科

ひたすら問題を解いた。
結構面白かった。
結局似たような問題しか出てこなかった。
一通り解いたらみんなあとは同じそんなテストだった。


・社会

結構暗記したのを覚えてる。
そのため振り返れば
予習して授業の時に暗記すれば良かったように思えた。
私は期末テストや中間テストの時に徹夜して覚えた。
結局少しずつ覚える方が
健康的だし賢い頭の使い方だと今になって思う。


・回顧

結局毎日
中間テストや期末テストや高校受験をみすえて
学習すれば無理をせず楽に進学出来たと思う。
でも
私はウツ状態で
家に帰ってもベットに横になる体力の中
いきなり高校受験で
二年の冬からたたき起こされて何とか進学した。

高校生活は
ウツにならないよう本をたくさん読んで
のりきった。

結局明瞭な頭とは何か知ったような気がする。
自分が健康的でいれる頭とは何か知った機会を得た。

当時を思えば偏差値は
社会と理科は70前後をマークしていたから
全体の偏差値はもっと良かったじゃあないかと思ったりする。
小学校も中学校も高校も大学も大学院も
結局勉強なんて自己満足でしかない。
まともに評価してくれない学校だったし
今の社会も評価してくれない状態である。

それでも本人にとったら自己満足しか基準が無いような気がする。
そういう状態に今もある。
成績なんて関係無い。だってまともに評価してくれない。評価する人があってはじめて評価される。
私はそういう人がいなかった。

あるとすれば
頭がスッキリする自己満足である。

<--世相を追記した。

・世相

親戚と話をして
ひたすらに自分が一番偉くひたすらに自己主張するのが理解出来ないと言っていた。
私はテレビがそういう風になっていて
それでみんながまとまらなければ学歴社会しかないと言った。

そういう話は
私の小学生時代に似ている。
決して是々非々の関係ではなかった。
そういう風にしたかった周りもいたように思うが
そういう意味でテレビが防波堤であって
それもダメなら序列しかない。
みんな個々に努力はしているがどう見たって円熟した社会ではない。
それがテレビに如実にあらわれている。

主人公でも無くても生きていける。
でも世の中にはそうでもない人がいる。
世の中は主人公としての自己主張型になっている。
そう私は認識している。
どう考えても円熟していない。
話してまとまる世の中ではない事は確実である。
そういう風に世相を私は感じている。
そういう意味では
西郷隆盛みたいに
大きく鳴ったら大きく鳴る。
小さく鳴ったら小さく鳴る。
そういう人間関係しか今も持てないかもしれない。

ただ私が主人公で無くていられるのは
私には私の役割が果たされるかもしれない中で私なりに努力しているつもりだからだ。
もしかしてあいつがダメでも私が何とか出来るためであり、
そういう意味で本当に私が活躍しない世の中をのぞんでいる。
だから私の考える事は最後の手段だと思っている。
だけどみんなは最後の手段を使う事に抵抗がない。
それはそれで悲しい事だと思う。
せめて公式よりも数学を分解した数字で理解できるように
英語を会話できるように
数学と英語さえ出来ればこわくない。あとはそれにプラスアルファである。
あんまり私に頼らない世の中が健全だと思っている。

<--文章を追記した。

・文章

私は文章を考える時
息が荒くなるらしい。
父親はそれがたえられなくて
私に文句を言う。
私がつらそうなのがガマン出来ないのである。

私はそんなにつらい気はしないのだが
結構頭を使っているらしい。

私が論理的に考えるのは大学の物理の影響であり
そしてみがきがかかったのは
読書と短歌と俳句だろう。
面白い事を文章にするのは
ボケとツッコミを友達と経験した事と
面白い小説読んでるってのもあるかもしれない。

結論として
私にも本当の事はわからない。
ただ結論の部分として足りているか足りてないか
そこの直感は私の気持ちがあらわれているかあらわれていないかが
判断基準になっている。

あとは
滝のように
流れていく
そんなおもいで文章にしている。
そうなったのは
物理、読書、短歌、俳句を繰り返してきたからだと思うし
私の今の現状を仕事でも表現したからだと思う。

そういう意味で
私は何を考えて行動しているか常日頃から
よく考えているからかもしれない。


<<---追記2014/08/02


国語のテスト出来る奴も
本人の中身が気薄だから点とれるだけで
普遍性があるからじゃあない。
やっぱり科学とか数学とか哲学とかやって最終的に国語が出来る奴が
普遍性にたどりつく。
20歳そこらで普遍性があるとは私には理解出来ない。
それ相当の経験が無くて普遍性にたどりつくはずもない。
若い頃の国語の高得点は本人の中身の気薄からきているのではないかそう思う。
そんなに中身のある奴が20歳そこらでいる気がしない。

<<--追記2014/09/03-04

一つ疑問なのは
私の文章能力はどうやって出来たかである。
多分高校受験の英語が出来たから多分中学生の時には形成されてたような気がする。
私は当時を振り返って見れば
もっと文章を作るべきだったような気がする。
でも英語を書けたというのは私にそれなりの文章が書けたからだと思う。
私の気持ちを文章にする能力がその中学時代にはもうあった。
それはなぜか私にはあんまりピンとこない。
私自身本音でいきてたぐらいしか思いつかない。


<<--追記2014/09/04


人間違う時間をみんなに割り当てられている。
私にしかない時間を私が使っている。
学生時代に受験勉強にあけくれた人生とはほんの少し違う人生を私は送ってきた。
それが文章にあらわれているのと違うかと思ったりした。
他人の何かとてつもない勉強と私は他人と違っている。
そんな気がした。
私には本を読み。文章を書く時間があった。
人に訴えたい気持ちを文章にした。
そういう時間が私にあったのが今も幸いしているのではないかそう思ったりする。
そんな時間も無く時間に追われた他人との決定的な違いは
私の文章にあらわれているのではないかそう思ったりする。
私の文章には気持ちがある。
それが如実に決定的に違っている。
そして論理的に説明しようと努力してきた。
そういう意味であの当時から世界に訴えたかったのではないかそう思ったりする。

もうそろそろ
勉強はじっくりやるものではないだろうか
何も大学受験に熱心にならんでも勉強はできる。
そういう事が私の件だけでも如実にあらわしていると思わざるおえない。

<--私と若者の未来を追記した。

・私と若者の未来

女の幻聴に悩まされている。
私は他人の感情を知って情緒不安定になる。
他人の感情を受けつけない大人がうらやましい。
それもアホとかバカの感情だから
気分は最悪である。
よっぽど私だけの感情の方が楽である。
私の中で他人が介在している。
そんな事が生物的にありえるのか私には理解出来ない。

催眠術とかでとっさに
非日常な事をやってしまう。

ある事ない事並べて私のせいにするのもどうかと思う。
女がいろいろ私について言ったって
私には全く関係の無い話である。

それが文明の力でうやむやになっている。
そんなバカな話あるのか私には理解できない。
動物としての尊厳なんて介在しない。
まるで神であるかのごとく愚かである。

私にとってそんな事するひまあったら
少年少女にアドバイスする事である。

私にとって幻聴は無意味極まりない。
あるとかないとか何の人類の貢献にもならない。

それよりもっと未来ある若者を
立派な大人にする事である。

私にとって暇な女の時間をかえしてくれと言いたい。
そんなの何の役にも立たない。

私の事何かより今の若者が
立派になる方がよっぽど大事だと思う。

それを暇な女の満足のために
私をかりだすなんて無駄にしかならない。

私はそんな状況を健全だとは思わない。
そんな事より
第二第三の若者が立派になる事である。

<--数学と理論と証明を追記した。

・数学と理論と証明


「ザ・ゴール2」を50%まで読んだ。
思考プロセスを図にする事で
因果関係を明確化している最中である。
それもいろんな場面で主人公は使い始めている。
十分条件と必要条件を図にしている。
イコールはちなみに必要十分条件である。
理論→実験という科学のプロセスからすると妥当だろうとは思う。
理論≠(not⇄)実験だから原因と結果の法則とは理論と実験を言っている。
そう私は解釈している。
だからイコールの数学の証明(A=B)はA→BとA←Bを証明する事である。
これは私は高校の数学で習った。
あとは

//追記2014/09/23
対偶の偽=命題は偽であり対偶の真=命題は真と
//end

合同と相似と背理法と数学的帰納法が私の持っている証明方法である。
大学に入っても数学は難しさを増す。
級数展開、フーリエ級数、複素関数論、代数幾何、多重積分、偏微分、偏微分方程式、群論
そういう意味では
あんまり数学出来るとは言えない。
おもちゃのように使えるような自分になりたいとは思っている。
でもそんな数学を使う機会は無い。
データを級数化(関数化)したりフーリエ級数化(三角関数化)したりぐらいは出来ると思っている。
でもそんな機会も無い。
でもその関数化に意味があるかは
理論として導けるかである。そしてその理論は古い理論も近似して証明しなければならない。
そんな機会は結構難しい。
やっぱ大学にいないと仕事として成立しない気がする。
会社は当たり前の事をやってなんぼのような気がする。

「ザ・ゴール2」はそういう科学の基本だけど
理論と実験の世界とはまた違う世界である。
もっとテクニックを駆使しないと正解にならないような気もする。

ボチボチやりたい。

<--読書を追記した。

・読書

小説を読むのに
何冊も並行して読めるか疑問に思っていた。
だけど
よく考えたら学校の授業は教科書を同時並行に進めている。
国語だって授業にある。

最初はプログラムの本を同時並行に読んでたら
小説が加わって
戯曲が加わって
普通に読める。

何の本だって同時並行に読めるのである。
気分転換で違う本読める。
何の苦労もせず同時並行出来る。

今の所
人工知能の本、ドイツ語の本、小説、戯曲、数学史を同時並行出来た。
結構平気で出来る。
学校の事考えたらもっとたくさん同時並行出来そうである。

何気に当たり前な事を当たり前に言っているとは思うが
そんな当たり前な事に
今更ながら自分自身だけでも出来るそう思っている。


//20150415 start
読書するのに集中力が無い場合
複数本を同時並行に進めるのをすすめたい。
あきたら違う本を読む事で
継続できる。
本を書くのに
複数本を違うストーリーで書くのに似ている。
気分が良く書けるそうである。
読む方も同じように出来る。
そうするといろんな本が結構普通に読めるようになる気がする。
//20150415 end

//20150428 start
本で学んだ方が
仕事より効率的です。

いつの時代も
自分が理解できる事を
あきらめず
良い本にめぐりあう
希望を持つことです。

時代は進歩しています。
いつか理解できる本が登場します。

良い専門書を探し
仕事なんて二の次で十分です。
//20150428 end

//20150517 start
時代が進んでいるから
私の読んでいない良書もあるはずである。

だから必要なことは
実際に本を開いてみることと
それが出来なければ書評を参考にすることである。

私は何か書評に裏切られた事もあるし
書評よりもいい本はあると思っている。
特にドイツ語とかフランス語とかプログラムの本とかは
情報に対する興味としても、勉強に対するアプローチとしても
開いてみた第一印象が結構左右する気がする。
ただ書評通りというのもあるのも事実である。
なので私の場合は期待ありかなしかという所である。
逆の意味では掘り出し物も結構ある気がする。

私自身本屋に行って物色して買って帰る気分は最高である。
特に大きな本屋に行くのは好きである。
ここらへんだと
静岡市内か東京近辺になるが
あまりそういう機会がない。
結局今の所は沼津のマルサンとAmazonぐらいである。

私みたいに本でプログラムするしか方法がない身としては
東京は大きな本屋があってアドバンテージである。
大仁で痛感した。
どんな本を読めば解決するのかわからない時
大きな本屋は魅力的である。
//20150517 end

・基礎学力

//20150504 start
高校受験も大学受験も大学院受験も
試験内容が違うと私は言った。

英語も同様である。
今日テレビ見てたら
「I take six minutes to get there.」というような似た文を見た。
これは大学受験の感覚である。
高校受験なら
「I have got there for six minutes.」って書く。
大学受験には完了形とか関係代名詞は出てこない。
高校受験の熟語も出てこない。
例えば
be afraid ofとか
be different fromとか
be kind ofとか
be famous for とか
have to とか
be able to とか色々である。
私が入学した大学院受験は物理専門の単語で辞書持ち込み可だった。

いかに世の中は
高学歴な人は中高一貫だとしたら
本当の基礎学力とは一体何なんだと私は思う。
高学歴でも基礎学力の無い人がいるという事である。

その現実を前に私は呆然とする。
だから私は言いたい。
「先を急ぐな目の前の事をこなせ」と
いつか絶対如実に結果が違ってくる。
私はそう信じている。

私もボチボチやりたい。
//20150504 end

//2015/05/05 start
電子回路の電流や電圧や抵抗の求め方
浮力の求め方
滑車の重さの求め方
分度器とコンパスと三角定規の使い方
などなど基礎学力は山のようにある。
それを無視して大学受験は成立している。
宇宙だって高校でも大学でも大学院でも語れない。
もともと基礎学力が無い人が
中学で何やっているのか知らないから
そんな意味不明なこと言ってるようにしか
聞こえない。
そういう意味で高校受験は
高校受験にしか出来ない事をやっている。
高校にも大学にも大学院にも無い事をやっている。
//2015/05/05 end

//2015/06/22 説明と整理
他人に説明するために
他人が必要だと言うのが私には理解できない。
他人がいなくたって説明は出来る。
そういう問いを作ればいい。
そういう問いを先生が作れないのが悪い。

だから私はそういう説明して整理出来たという話が嫌いである。
他人がそこで介入してくるのが理解できない。
徹底的に勉強できていないだけである。
それは先生の責任である。
私の責任ではない。

大体説明なんて
他人を前に説明する機会ぐらい。
大学にはいっぱいある。
何も弱者だけが必要なわけでない。
そこに他人を出してくるのは
私には先生の悪い知恵が見えてしょうがない。

多分プログラムにも
英語は必要である。
射影行列とか回転行列が必要かもしれない。
もしかしたら重力の計算も必要かもしれない。
そういう意味で教養も必要である。
そんなに簡単に物事は進まない。

それなのに
安易に話が進むのは私には理解できない。

心配しなくても
そんなに難しい事やっている社会ではないかもしれないが
それが社会の悪い所である。
そうやって人をこきおろす。
みんなそんなに役に立ってないのに
自己主張するのである。

私にはみんな同じようにしか見えない。
でもみんなは違うと自己主張するのである。
だから私は勝手にしろとしか申し上げれない。

それで他人に説明している時間は私には与えられなかった。
多分私が説明していると
無駄な時間がいっぱいでてくる。
それが会社の許容範囲をこえているのだと思う。
だから先生もあきらめて欲しいのだが
先生の野望がどこまでやる気なのか私にはわからない。
会社にいるとそんな事やっている時間もないと私にはうつった。
//2015/06/22 end

<<追記2015/12/02
若者に敵か味方か選択を迫る。
私の人生を振り返ると
決して敵か味方かの判断より第三の道を選択した方が状況は好転する。
第三の道を志すのは自己努力は必要である。
そういう意味では敵か味方かは短絡的ではある。
私は決して正攻法の人間ではない。
それでも第三の道はある。
国防も自分が望む第三の道があるはずである。
それは敵か味方かというより自分にできる国防が第三の道を開くと思う。
そうして考えて行動しているとほどほどにやれる。
ゼロ金利の経済も異常である。
もっと国民が自分に何ができるか第三の道を模索しなくては
良くならないだろうと思う。
本当はこの日本においてやるべき事はたくさんあるのに
誰もそれを為し得ないのは
ただ単に生活しているだけだからである。
ほどほどにやれる自分ができる第三の道が開けない。
ここまでくると学歴なんて関係ない。
努力あるのみである。
<<追記2015/12/02end

<<2015/12/03
今週から12月に入った。
一年を振り返ると自分自身嘘のようである。
来年も今年と同じく勉強が山積みである。
アラビア語や中国語や韓国語やドイツ語やフランス語や英語もさることながら
古文や漢文もある。それに伴い短歌や俳句も文語調に挑戦したい。
デッサンは低迷しているが草や花が私の気になるところである。
プログラムでは機械学習やiOSの開発などがある。
物理をやるだけの時間や環境が無い中
ここまでやってこれただけでも奇跡である。
本当に天才アルバート・アインシュタインしか出来ない事を
私もやった気でいる。
それはそれでハッピーだなあと思う。
今後はどんどん間違う事が大事かなあと思う。
若者に希望を見出してやる事が大事であり
私にしかできない状態は異常である。
大事な事は実践する事である。
出来なくても出来る事から実践する事である。
実践しているうちに一つ一つできる事を増やせばいい。
それはプログラムで実感していて
掲示板で外国語を表現してなおも実感し
短歌や俳句でも実感している。
最初は色々間違ってもいい。自分で間違いに気づく事が大事である。
実践して自己修正し枝を増やしていく。
それが人間のやる事である。
あとは私とは何かという事である。どんな私が日本で生きているのかそれを出来るだけ表現したい。
今年もそれが常に私にあって表現したのだが
いつになっても終わらない。
多分それだけ世の中が罪深いからだと思う。
ボチボチやりたい。
<<2015/12/03end

<<追記2016/02/03
私はアルバート・アインシュタインと違って
科学破壊から始まった。
そういう意味ではデストロイヤーだったような気もする。
高校の友達に言われたことがある。
ある意味予言に近いかもしれない。
そういう意味ではパラドックスみたいに科学批判から初めてもいいかもしれない。
閉塞的な現状を打開できるかもしれない。
新たな視点が得れるかもしれない。

私はそうやって二十数年過ぎて
相対論に頼っている。
これも時代のなせる技かなあと思う。
アルバート・アインシュタインにならって今後も破壊神になれるか自信無いけど
そういう新たな視点を持って
時を過ごしたいと思っている。
<<追記2016/02/03end

<<追記2016/01/26
自分のできることから積み重ねて面白くやる事である。
たとえ高学歴な人たちも出来ない事なんて沢山ある。
もしかしたらこれが世の中に役に立てるような事を目指すべきである。
そしたら毎日が面白く送れる。
そこがミソである。

エジソンも普通の人である。
エジソンがもっと偉かったら私の活躍は無かっただろう。
科学をぶち破るほど過激な人では無かった。
ただ毎日は面白く送れたのは想像できる。
そういう人間が珍しいという典型のように思う。
そういう意味であこがれでありミソである。

高校の数学がわかるから大学の数学がわかるとは限らない。
ましてや高校の数学で現代物理は語れない。
まだまだチャンスはあるのである。
<<追記2016/01/26end

<<追記2016/02/05
獲物にねらいをつけて喜んだり悲しんだり
準備をして待ち続けて喜んだり悲しんだり
狩猟にしろ農耕にしろ喜んだり悲しんだりするわけである。
特にプログラムなんてものは
狩猟に近い。そして物理なんかも狩猟に近い。
成果があがるかは
狩猟や農耕に限らず神にしかわからない。
そして待ち続けて結果が出るのかは
ある程度の予測が必要である。

私のやることも最大限無駄をしない目標で
自分にできることをしているだけである。

そんな予測も立てれないでむやみに時間は使わない。
私の状況もそんな予測が立っていない。

予測が立てれない以上実現不可能である。
それぐらいの判断は私にもできる。

待つとは他力本願であるが
ある程度の予測ぐらい立てなければいけない。

生物科や農学部に魅力を感じる女性は多い気はする。
それでも何かを利用してやろうと思うのは
プログラムでも物理でも同じである。
難しいことにも長いタイムスケールがかかるし、ゆっくりやれるところもある。
簡単なことには競争が激しく。入れ替わりが激しい。

こんなこと言って
私の世代がこんな事を挽回できる余地はない。
大学を出て16年目である。
それを込みでこれから先をちゃんと予測しているのだろうかと思う。
今まで散々予測は当たっていないと思う。
それでこれから先に予測が当たる根拠は存在しない。

それぐらい私も認識できる。
なのに続けるのは自分の非を認められないからである。
私が非を認めるのは最善の道の途中だからである。
私は私なり予測してそれなりの事をしてきた結果である。
それを他人に言われる筋合いにない。

結局世の中は誰が偉いのかそんな疑問しか持てない。
くだらない人が権力持っているからこんな事になるんじゃあないかと思う。
ちゃんとした人がちゃんとした事やってたら
私みたいな人はお役目御免である。
なのに世の中はそうなっていない。それが私の認識である。
くだらない庶民が権力をふりまわすのはそういった事情だと思う。
私みたいな一般庶民を取り上げるだけみんな納得しない。そういったところだろうと思う。
そんなの私の責任ではない。
偉い人の責任である。
<<追記2016/02/05end

<<追記2016/02/08
最近は葛城山で母親に笑われた時の高笑いを思い出す。
私が花粉症でクシャミを連発したら
母親は笑っていた。
私の人生を象徴している気がする。

私が家族に求めるとしたら快活な会話かなあと思う。
そういう所が息子や娘に出来てたら
明るい未来が待っている気もする。

私はあんまり話を自分の方に持っていくのは好きじゃあない。
でもそういう人達でも
快活に笑い飛ばすような会話をしてもらいたい。
人間そういう所から頭が自由になる。
あんまり凝り固まった頭では先が思いやられる。

母は私にありもしないことをたくさん言うから嫌いと言われたことがある。
私はそれぐらいがちょうど良かった気がする。
母とはよく論戦した。
私としてはわかってくれるまでやろうと思っていた。
そんなんだから国語の表現としてあの手この手を使った。

今思い出すとなつかしい気がする。
私としてはそういう親子を見守りたい気もする。

だけど母親からすると面倒くさい子供だったかもしれない。
中学高校ぐらいになると論争はあまりなかった。
多分そのほかに国語に影響したと言ったら読書ぐらいである。
もう一点は中学生の時に国文をやった。
えらい面倒くさい気がした。それが私が文語に対していだいているきっかけになっている。
あんまり大学入試では国文なんてやらない。
あんまり知らない人多いかもしれない。
私にも私の固有のメリットとデメリットである。
<<追記2016/02/08end

<<追記2016/02/16
明るい未来に個人がしていけば
明るい未来が待っている気もする。
そういう風に過ごせばそういう風になる。
みんなスルーしたらみんなスルーした人生が待っている。
私的には明るい未来にしていこうぜと言いたい。
そういう馬力のある奴が明るい未来に出来ると思う。
私ができ得る条件と言ったらそれぐらいである。

あとは私を病気にして喜んでいる女性は
マイナス条件ではある。
何となく一人で生きた方がラクな気はする。

私としてはお茶をすすりながら
微笑ましくて奥ゆかしい話ができればそれが風情な気もする。

タコのギスギスした気持ちなんて聞いていない。
何にも成立しない女の叫びなんて聞いていない。
私にはタコは無関係である。

天然の陽気な気持ちと奥ゆかしくて微笑ましい気持ちと道理が通れば
タコの事情や話なんて聞いていない。
一体私にタコとどういった関係にあるのか理解できない。
しょうもないねえぐらいしか思えない。

明るい未来は自分が切り開いて自分が享受するものだとつくづく思う。
私もボチボチやりたい。
<<追記2016/02/16end

<<追記2016/02/20
私の幻聴や催眠術や生理的不調は
受け身である。
決して自分から解決しない。
そういう意味で奴隷である。
私の運命は私で何とかならない。
そんな事を神は許すのか私にも理解出来ない。

それでも何となく神はいる気がする。
神が私にこたえている気はする。
声にならなくても私のやる事なす事神技である。
神がいなければありえない気がする。

受け身でいるのもある意味大事かもしれない。
柔道や剣道でひたすら受け身なってこそ
本当の強さが生まれる気がする。
後の先の発想は
相手の攻撃する瞬間の先手をとることとして
小学生時代の私の剣道の負け試合から生まれた。

負ける事から得る事無くして
負ける価値は無い。
受け身にも強くなる要素がある。
それを知らずして強くなるのは間違っている。
<<追記2016/02/20end

<<追記2016/02/21
好奇心はキッカケとトリガーを与える。
だけどあんまり続かない。
日本史も中学生の時は興味があったが
高校生の時は好奇心を失っていた。
謎が謎を呼ぶという意味では挑戦であり
色んな挑戦をするという意味で遊び心なければ続かない。
あえて
「好奇心」と「挑戦」と「遊び心」をあげたい。
何に遊ぶというかというと
他人や自分の利益を超えるという事である。
試験と全く違う次元である。そういう意味で自由になる。
好奇心が失われても挑戦は出来る。
そんな事を繰り返すうち謎が生まれる。
そして謎が謎を呼ぶ。
そして好奇心や挑戦や遊び心が解決してくれる。

今はあと一、二年かけて簿記や会計や法律や経済やらの本を読みたいと思っている。
他には外国語や音楽やデッサンもある。
そうでもしない限り次に進めない。

それが今の私の「好奇心」と「挑戦」と「遊び心」である。
ボチボチやりたい。
<<追記2016/02/21end

<<追記2016/02/24
今日の朝は何か不安な夢を見た気がする。
何かどうやっても勉強できなくて
試験がパスしない夢を見た様な気がする。
それも大学試験だった様な気がする。

私自身幻聴があって暗記出来ずそんな危機もあったが
数学と物理で乗り切った。

何となく国語関係で悩んでた様な気がする。
そんな手前今日の朝は古文と漢文にかじりついた。
多分反射神経だったと思う。

古文と漢文を多読しようと思っている。
「源氏」で学ぶ入試古文 受験古文は名作で学ぼう! 学研合格新書 [Kindle版]
論語・韓非子で学ぶ入試漢文 東洋の思想は漢文から 学研合格新書 [Kindle版]

私が学生なら試験問題にかじりついただろうけど
私は試験を受けるわけでもないので
多読を選択した。

本当に試験問題で何をはかるのか私には半信半疑ではある。
あるとしたら有言実行しかない気もする。
そんな試験に受かったから知識があるとは思えない。
その他の知識なんて方がいっぱいあるからである。
だから
私はこれだけやりましたぐらいしか誇れるものはない気がする。
そんなもののために試験をやっても
中身はどうでもいいわけである。

そしたら私も同じでいい気もする。
私はこれだけやりましたというものを残せばいい。
ボチボチやりたい。
<<追記2016/02/24end

<<追記2016/02/28
この状態のどこが善意で動いているのか理解できない。
悪意に満ちている。
私自身信じられない。
世も末である。
学歴や職歴なんか私には無関係である。
しかしそれが私にふりかかっているような恐ろしさを感じる。
出来るだけ私はそれに無関係でいたいというのが私の本音である。
なんか世の中のドロドロした部分を肯定するなんて
理論家のする事ではない。
美しいものに惹かれてこそ
美しい理論ができる。
ぜひそういう人間になって欲しい。
なのに悪意が満ちている。
あんまり世間や世の中に近づきたくないというのが私の本音である。
美しいものを考えるのに汚いものなんか考えない。
汚いものは雑音にしかならない。
そういう雑音の中で生きているのは確かである。
ボチボチやりたい。
<<追記2016/02/28end

<<追記2015/10/18
人間美しいものに惹かれる。
それが神にどうつながっているのか私には理解出来ないが
理論が理論を超えるとは
美しいものからさらに美しいものとして超える時だろうと思う。
そういう意味で私が理論を超えた場合
前の理論が美しかったからに他ならない。
それでも神が何を考えているのか私にはわからない。
美しいものがさらに私を美しいものとして神が導いている気がする。
そういう美的感覚が理論である。
そういう意味で仮説から新たな仮説に飛躍するものは
前の仮説が美しかったからであろうと思う。

ボチボチやりたい。
<<追記2015/10/18end

神様の言う通りという決定論

<<追記2016/03/01
優秀な人物とか優秀な物を生み出す社会にしなければいけない。
弱者救済より私は大事だと思う。
弱者救済するより自分が優秀になる方が大事だと思う。
ともすれば共倒れだからである。
結局社会主義と共産主義の失敗はそれに尽きる。
今後同じ失敗するかわからないけど
大事な点は優秀なものを残せるかにかかっている。
日本人見て優秀なものが無いと思われたら最後である。
それはアメリカ人とか外人も同じである。

そして社会主義と共産主義の失敗は
理想を求め過ぎて複雑な人間になる事である。
学校の先生見てたら
あんな先生になりたく無いと思う。
それが私の時代である。

もっと自分の心に正直になる事である。
そうしなければ面倒な先生にしか思えない。
複雑過ぎて心がみにくい。

人をおとしいれたり、人を助けない以前に
自分が優秀になる事を主眼に置かなくて
社会は末期的としか思えない。

だから私は日本に優秀なものがあるという事が
その国の姿を現していると思う。
そういう視点無くして社会は語れない。
それが私の社会学である。
人を優秀にさせない理論なんて私は信じられない。
そんな社会学いらない。
そういう意味で大学当時からそんな試験に意見して可だった。
くだらない人が給料泥棒している気もして
私に給料もらいたいぐらいである。
人間が美しくならなくて何の社会学なのか私には理解出来なかった。
ダメダメ人間作って何が面白いのか理解不能である。

私は人間が向上するって大事だと思う。
そのための社会学なら私もわかる。
そうやって約二十年近くになる。
<<追記2016/03/01end

<<追記2016/03/02
プログラムで|2x-1|の関数とか作れる。
xが1/2以上の時は2x-1をリターンし
xが1/2未満の時は-1*(2x-1)をリターンする。
数学的に整合が取れるので数学である。
例えば交流の電圧を変圧してプラスだけにするとか
マイナスだけにするとかのプログラム計算にも使える。
関数化できるということはそういうモデルを数値的に想定できる。
こんな事は情報処理試験には出てこない。
数値計算はまた別世界である。

なんでこういう事を言うのかというと
プログラムが数学であるという事を言いたいからである。
高校の数学もわからなくてプログラムは出来ない。
プログラムが先か数学が先かは方法として考えるべきであるが
どちらもやっているのに越した事はない。

なんで私がそれを指摘しなければ
私がラクにならないのか文句タラタラである。
私をラクな道に進ませて欲しい。
他人の出来無い事を私に当てつけない人生を送りたい。
つまり自由になりたい。
他人のどうにかなりたい事を私のストレスにしないで欲しい。
そんなに切望するなら私を先生にしてからにして欲しい。
教壇で即戦力になるぐらいの事はできると思っている。
それなのにピエロになってストレスを感じるのはツライ。
直球勝負して欲しい。
紆余曲折我慢ならん。それが私の本音である。
<<追記2016/03/02

<<追記2016/03/04
モンテカルロ法でランダム関数使って確率関数が作れる。
普通ランダム関数は時間を使って一様なランダム数を発生させる。
0から1のランダム関数を使った場合
確率はすべて合計すると1になるから
表と裏のコインの数が
10回やって表が7裏が3だとすると
確率は表が0.7裏が0,3になる。
そこでランダム関数が出てくる
表と裏を両方発生させて表の確率が0.7裏の確率が0.3になれば確率分布として整合している。
表の時にランダム関数を発生させて0.7以下なら表となりそれ以外は裏(表以外)となる。
裏の時にランダム関数を発生させて0.3以下なら裏となりそれ以外は表(裏以外)となる。
裏と表以外に変数がたくさんあっても全部そうなめしたら確率分布になる。
これで自分独自の確率分布を発生させることができる。
正規分布もできる。
別にどんな確率分布だって合計が1になれば可能である。
私はナンバーズの確率分布を数学の確率に近づける確率関数使って予想してみたが
ただの数学の確率に近かった。
案の定当たらなかった。
何か夢のような確率関数作る人いたら夢のようである。
<<追記2016/03/04end

<<追記2016/03/05
ホームページで数学を取り上げるのは少々難しい。
昨日少し数式やグラフも必要かもと思った。
感覚的には言葉で表現できても
緻密さに欠ける。
html5に期待したい。
数値計算と言ったらルンゲクッタ法とか行列計算とか気になるけど
もう用意されているコードで十分のような気もしている。
昨日モンテカルロ法を紹介したのは
大学にいた頃他の学部は正規分布しか使わないと先輩に言われ
正規分布でもない分布をプログラムで使える事を示したかったからである。
そんな要求にこたえているか自信は無いけど
とんがってみたのである。
<<追記2016/03/05end

本の紹介

アプリケーション

<<追記2016/03/13
アメリカがイギリスから自由を求めるように
私も世間からも幻聴からも自由を求めている。
私の実感からしてそれは結構正しい選択のように思う。
そんな手前
アメリカももっと自由を求めていい気もする。
それはトランプ氏とは異なる自由なんじゃあないかと思う。
それは閉塞的な自由というより開放的な自由のように思う。
グローバル社会とは開放的な自由な権利なのではないかと思う。
それが本当のアメリカであり
私の自由に合っている気がする。
そんな手前
自分のための勉強より開放的な自由を求める勉強の方が健全である。
自分が開放される自由のための勉強をすべきだと思う。

得てして自分のための勉強になっている。
それがその人がコワイ原因のように思う。
もっと自由のための勉強をすべきなのである。
それは私が生きていて正解だったように思う。
全てを開放する自由のための活動が人々の共感を得る源泉になっている。
それが神の選択のように
私は思える。
<<追記2016/03/13end

<<追記2016/03/14
私は高校受験で結構暗記して頭がパンパンだった。
そして大学入試は幻聴で全然暗記少なかった。
それもあって何かうしろめたい感じもある。
まあ退却兵のしんがりみたいではある。
でも歌とか語呂で暗記の本見ていると
結構な暗記量である。
そういう所で京大と東大は別格のように思える。
暗記だけじゃあないにしてもそれなりに暗記も必要になってくる。
参戦する自信はなくはないけど
就職できるわけでもなく
医者になるぐらいしか価値が無いけど医者になりたいとも思わない。
それに専門もぶら下げてる手前
今後どのように対処すべきか悩んでいる。
何か自由になりたい。そう思っているが何が自由なのか難しい。
高校受験のような頭を大学受験にも求めて一浪して失敗した。
それだけに頭を使うとは健康体である感覚はある。
私が感じているぐらいだから
国民の半数はそれが可能だと思っている。
そう言って私は自由になりたい方である。
それがまともって言ってくれる世の中をのぞみたい。
これもボトムアップである。ボチボチやりたい。
<<追記2016/03/14end

<<追記2016/03/15
何が何でも楽しんで生きた方がいい。
plan do seeというよりenjoy do seeでいい。
勉強も一工夫すれば楽しくやれる。
そんな作戦をもエンジョイすればいい。
そしてエンジョイを増やせばいい。
仕事も勉強も生活も同じである。
工夫ある所にエンジョイがある。
つまらなくなったらパーである。
とどのつまり面白くないのは本人次第である。
なのでつまらない原因は私には無い。
なのに現状はそれを女は他人のせいにしている。
何か問題のすり替えもいい所である。

そんな事をいちいち気にしてたら
我が身がもたない。
ただ私は今日もエンジョイした。その方が大事である。
なのに女は男のせいにしている。
ほとんど女の責任である。
私には無関係である。
私はそれをどうしようも無い。
ここまでやって本人次第にならないのは
いかがなものでしょう。
自分の道は自分で切り開くでいいと思う。
それでなんで私なんかが関係あんのか理解不能である。
面白いねえとか面白く無いねえとか言ってればいいだけである。
それは男も女も同じである。
<<追記2016/03/15end

<<追記2016/03/16
今日の朝の電車で簿記三級の読書を完了させた。
経営学とか会計学とか税務とか総務とか色々本が残っている。
有機化学も読んだりデッサンとか作詞とかも読んでいる。
そんな手前外国語は最近は英語とドイツ語ぐらいになっている。
結構知らない事を知るのは楽しいように思う。
電子書籍で若干敷居が低くなっているように思う。
そういうポテンシャルを持った人が電子書籍を作っているケースがある。
普通の本より値段が手頃で結構満足している。

テスト勉強もテストに特化するだけで本当に勉強したというのか半信半疑である。
どんな事もテストになるというわけでないからである。
そんな思いからテストに依存しない暗記方法も必要な気がして
語呂や歌で暗記するのもいいかなあと思ったわけである。
特に入試試験はどんなテストが出るか大体大まかにわかっているテストである。
大まかにそれた試験は出てこない。
でも世の中そんな現実は無い。もっと自由に勉強した方が賢い。
特化した試験にこだわるべきで無い。
それが私の自然な発想であり四十代の見解である。
それで私は極力特化しない戦略もありかなと思っている。
作文や英作文もそうだし音読や読書なども該当する。

そんなんで試験勉強するよりそういう活動した方が賢い可能性だってある。
だからあんまり試験に特化したからといって
試験ができるってだけなのである。
悪い事ではないにしても
往々にしてそういう所から抜け出た勉強も必要な気がしていて
それが自然な発想な気がしている。
それでテストから離れた暗記方法もありかなと思ったのである。
<<追記2016/03/16end

<<追記2016/03/17
まあ私も色々時間の経過で変わってきている。
中学生や高校生や大学生や社会人に至って変遷している。
どうしても若い時は自分がしっかりする事を重きに置いて
あんまり自分が偉いとも思っていない。
なのであんまり自分の思ってる事の半分ぐらいにしか文章になっていない。
同級生にも自分の話をするのは限られている。
ここ二年間で大量に文章を作成したのは
ひとえに自由のためである。
学生の悲観的な話を聞いていたので私は誰でもテストはできると言ったが
ほとんどの人が悲観的なことを言ってたからである。
そんなのありえないと私は思ったのである。
正規分布は高校で習ったが
高校生や大学院生の時に二つ山があるグラフを見た。
高校の時はそれがアメリカの学生の学力分布だと説明を受けた。
大学院の時は超新星爆発の何かのグラフだったが
明らかに高校の時を思い出させた。
今までの学生の経験と地域の学力の差を考えると
平均の学力が上がったり下がったりするのはまさに正規分布そのものに思える。
それで大体半分ぐらいが境界とみて妥当のように私は思う。
だけど
そんな学力よりも私は工夫の方が大事だと思う。
こんな知識の量の中でいかに自分らしい工夫をするかの方が学力より大事な気がする。
それを可能にするのは今までの知恵を知るしかない。
みんなそこから出発する。
人を勇者にさせるのが大事であって人を弱者にさせるのは間違っている。
それなのにみんな悲観的になったりみんな楽観的になったりするのは
正規分布のなせる技である。
勇者とはリスクも知っているし知識もあるし工夫もある人が勇者だと思う。
あんまり全員が成功する世の中ではない中で
どうやってリスクを回避し知識を得て工夫できるか冷静になった方がいい。
日頃からそういう経験を胸に対処していくしかないのである。
あんまり一日全部が積極的とか逆に一日全部が非積極的とかあんまりにも危険である。
そういう世間に私自身はうんざりしている。
大体押すところもあれば引くところもあるというのが健全な人間なのである。
なのに女は毎日叫び続けている。
そんな女ありえないというのが私の見解である。
そういうのを異常な女である。
男もそんな女を対処しようとするのは間違っている。
そんな暇あったら自分の男前をみがいた方がいい。
そして男諸君にも押したり引いたりした方がいい事を申し上げておく。
それが私の健全な世間である。
<<追記2016/03/17end

<<追記2016/03/19
知識からの実践こそものの上手なれである。
得てして知識のテストで止まっているから
面白くも無い話に聞こえる。
私の場合はそれがパソコンで実践可能になっている。
仮想なものまでプログラムで表現できる。
でもなかなか夢まで実現するのは難しい。
それでもパソコンに実行させる事で私はある程度消化できた。

なので面白くないなら
他人に迷惑をかけず実践する事である。
知識からすべてを実践する事である。
そうしたら色んな事に気づく
そして新たな知識を求める。
そして考える。そして試してみたくなる。
それが面白いという事である。

そういう面白い経験が無いというのは
実践不足なのである。
それは社会や他人が悪いじゃあなく自分が悪い。

それが私に局所的に可能になっている。
その部分がこのホームページにあらわれている。
学校の勉強なんて大体パソコンで実現可能なのである。
魂とか妖怪とか科学で扱えないものは
私にとっても実践不可能である。

だから
他人に振り回されず他人に迷惑をかけず
学校の知識を実践する事が面白い原点である。
<<追記2016/03/19end

<<追記2016/03/28
入試試験を肯定したり否定したり
色々やってみたものの
一応実践すれば
結果は誰がやっても一緒のように思う。
私としては人材活用した方がいい気はする。
適材適所というのが私の理想論である。
そんなに試験が出来たから頭がいいわけではないというのが私の理論であり。
せいぜい試験のせいで頭を使って健康体を認識するぐらいである。
その頭を使う健康体ってなんぞやというのは
山口大生でも認識するぐらいだからほとんど国民の半数は認識するものである。
そんな認識ぐらいしか共通項無い。
頭使っている感覚しかない。
そんなの京大生や東大生より私は頭使っている。
それが現在の状況である。
そんなに他人に差をつけるぐらいなら
何かの役に立った方がマシである。
いったい今まで何の役に京大生や東大生がなっているのか私には理解できない。
ただ差別化しているだけである。
それこそ基本的人権を無視している。
特権の何物でもない。
どこらへんが他人と違うのかわからない。

そんなん他人と違うのは私だけではないのかとさえ思う。
それが本当の真実になっている。
あとは私は関係無いねえでいい。
好きなように基本的人権無視して差別化してればいい。
みんな自分がカワイイのねで
そんなん特技でもなんでも無い。
ただの試験バカである。
<<追記2016/03/28end

<<追記2016/03/29
そこいらの姉ちゃんを説得出来ないで
何を勉強したというのか理解出来ない。
せいぜい仲間うちで認識を共有するのが精一杯である。
どいつもこいつも似た者同士だから
モメルのであって
互いに違ってたらモメ無い。
誰も勉強している何て言え無い状況である。
そんな事を許していいのか理解に苦しむ。

試験バカには困りものである。
せめて勉強していると言えるだけ頑張ってもらいたい。
今の現状はそれに値し無い。
無知の知のそこいらの姉ちゃんの方が頑張っている。
そしてその姉ちゃんの方が偉くなっている。

男からしてそんな時代に思え無い。
それをもののみごとに実現している。
姉ちゃん一人説得でき無いなら
東大も京大も廃校にした方がいいんじゃあないかと思う。
仲間うちでナアナアにやっているだけである。
そんなんを知力というだろうかと思う。
私としては世に知らしめる知力が大事だと思う。
それが試験バカには極端に低下している。
そのため
世間は似たり寄ったりでモメテいる。
全て試験バカのせいである。
税金消化している分責任とってもらいたい。
そういう自覚と使命が足らない。
教育には税金が支払われている。
私もそういう意味では同じである。だからある程度は奉仕しようと今までやってきた。
そういうバランス感覚無くて
日本国民やってられるかと思う。
そういう感覚が欠如しているのが問題なのである。
<<追記2016/03/29end

<<追記20170429
私自身大学出て社会に放り投げだされて
何の助けもなく途方に暮れた時があった。
それ以外にもどんな時もなんのヒントもなくここまでこれた原因を
書きしるす必要があるような気がする。
そんな時人間は何が必要かと言えば
私自身何を悩んでいるのか考えるべきである。
以外に私も含めてわかっていない。
それが見えてくると図書館で本を借りたりもっと手段を見出せる可能性がある。
悩んでいない事が悩みな場合は
自分が現時点で何に興味があるのかが悩みである。
もっと自分がなにをしたいのか考えるべきである。
仕事して漠然と解決策が見つからない場合は
色んな事を試せるように環境に配慮して仕事する事である。
そういう仕事が出来ないならあきらめも大事である。
そういった事が自分で出来るとは
ある意味愛と勇気が無ければ一人で解決しない。
それともう一つ
自分がどれだけ勉強してきたかも影響する。
英語もしかり国語もしかりプログラムもしかり
勉強すればするほど自分は物事をヒントに考えるようになる。
それが自分の支柱になる。
なので若い時から勉強するのはそれなりに意味がある。
自分で考える癖がつく。
案外自分の気持ちにヒントがあるのは
それなりに経験しているというのもある。
それだけ数をこなして実行しているから経験になっているのだろうと思う。
いくらかやってたら色んなヒントに遭遇する。
それに気づいたらたくさんの経験になるはずである。

それを一人でやるにしても色んな状況があるわけで
それを乗り越えるのは総合力なんだろうと思う。
だからあんまり利益に走るよりハードルが高い気がする。
そんなに簡単じゃあないからである。
それが私のやる事をやらなければありえないという一言になる。

私自身、学歴も職歴も関係無くやってきた手前
世間とは、かけ離れた人間である。
それでもここまでやれたのは奇跡だろうと思う。
もうちょっと他人が頼りになればいいのだけど
そんな人がいない。
迷惑ばかりである。ちゃんとしている人を見た事がない。
それでも仕事しているというのがこの日本のシステムである。
社長は誰かがしっかりしている人がいるというが
私は近くにそんな人がいるように見えない。
法律とか法令とかなんかそういう決まり事ぐらいしか思いつかない。
もしかしたら品川とか東京近辺にいるのかもしれない。
それでも生活しているというのが私の実感である。
そういう私が私になりにやってきた一つのこたえである。

そういう自己努力は
他人がどうのこうのより
自分なりにやってきた。
オリジナルな事のオンパレードなのは
あんまりそんな人いないから
かもしれない。
あえて自分の本音を言った。
誰もあてにしていない事が
いっぱいあるというのが
現状なのがあって
あきらめに近い。
あるのは仕事だけかもしれない。
仕事の話だけ通じる。
それはなぜだろう。
あんまりにも
ヒドイ状況な気がする。
それでも日は過ぎる。
ボチボチやりたい。
<<追記20170429end

<<追記20180413
科学も神の領域を整理して取り組まないとうまくいかない。
いくら科学がそうだからと言っても
神の領域は残る。
そのため神の領域を設定しないと取り組めない。
宇宙論やっててそう感じる。
何が科学で言えて科学で言えないのか認識しないと
研究をうまく説明出来ない。
それをあきらめたら科学者になれない。
全知全能なんて無理である。
それが私のスタンスである。
それでも取り組めるのは神がいるからのように思う。
限りなく完璧に近づいていく。
それは神のなせる技である。
神がいるから完璧に近づくのである。
それは私の力ではない。
全知全能の力なんて人間にはない。
神の力こそ全知全能である。
なので神の言う通りというのが科学である。
私の力ではない。神の力なのである。
そう考えないと科学は取り組めない。
それぐらい神は偉大である。
そう思わないと科学は発展しない。
得体の知れない神の力を感じないと前に進まない。
それはまっとうな人間の営みだろうと思う。
そうしないと研究に対して説明つかない。
なんか別の力がはたらいていると思わないと割り切れない。
自分の力だけで研究は進まない。
それが科学の実態だろうと思う。
<<追記20180413end

<<追記20180423
私の言う事が実行しやすいのはもしかしたら
無理しない。複雑な事しない。無理なら課題にし保留する。
と言う感じかもしれない。
英語もそんな感じを歩いてきた。
高校受験を大学受験に持っていくにはどうしたらいいか経験あるのみだった。
そんな手前保留続きの課題オンパレードだった。
それが無理なく複雑でなくここまで来た原因だろうと思う。
そんな手前実直で本筋を極めるにはじっと考えて来た。
それだけの時間をかけて乗り越えて来た。
短期決戦では無かった。長期戦だった。
それでもこの道のりは子供にとって短期戦だろうと思う。
それが過去になったからである。
やがて子供も大人になると長期戦をしいられる。
それは新たな課題だろうと思う。
人間の人生において大事な事は長期戦に耐えれる事である。
それに耐え乗り越えた結果はまたそれが過去になり短期戦になる。
そうやって人間の歴史は更新されてゆく。
私が言いたい事は実直で本筋とはどんな展開でどんな毎日かと言う事である。
それが不可能なら長期戦は無理である。
問題の核心は長期戦が短期戦になって
無理や複雑が重なり保留も出来ない状況を作り出している事である。
不可能が不可能を呼んでいる。
正解は短期戦を長期戦に持っていく事だった。
でもこれからは短期戦も長期戦も必要である。
私は短期戦もあったし長期戦もあった。そう言う意味で人類皆同じである。
誰かのように短期戦も長期戦も成立しない人とは違う。
それは私には基礎知識があったからだろうと思う。
そしてそれなりに経験して来たからだろうと思う。
やったらめったらじゃあない。それなりにやって来た。
それが短期戦にも長期戦にもつながった。
それなりに無理もなく複雑でもなく保留して課題もあった。
それが今の私がいる結果だろうと思う。
そんなに単純じゃあないと思う。それは文章を見てもらったらわかると思う。
こんなに書きまくるのは問題をどうにかしたいからである。
自由になりたい一心である。そのために私は書いて書きまくる。
そう言う意味で自由とは永遠に続く愛だろうと思う。
永遠を目指すなら自由になる事である。
<<追記20180423end

<<追記20180429
<<追伸
話の基本は自分の事を語る事である。
往々にして他人の事を言うと間違いの元である。
それも日本国とか他国も同じである。
自分がどう考えてどう生きてどう関わっているか自分を中心に語った方が
間違わない。相手のいる話は不確定である。
だから私はあんまり他人の話するのは私に関わって来るからである。
関わらなければそんな話しない。
逆に他人が私の事言うのも間違いの元である。
それが私の悩ましい問題なのである。
私には無抵抗なのに関わって来る。
ほとんど他人の問題であって私の問題ではない。
それがわからない人が問題を起こしている。
他人の付き合い方が間違っている。ただそれだけのために迷惑を受けている。
それは民主主義の崩壊である。
他人の尊厳なんて守ってられない。
ほとんど犯罪者である。それに私はひたすら無抵抗である。
それがわからないから間違いを犯すのである。
もっと他人はどう言う他人なのかわかっていないだけである。
それを私がどうしろと言うのか私にはわからない。
ただひたすらに無抵抗である。
<<追伸end
<<追記20180429end

<<追記20180430
私は私で物理の理論家の役目を果たした気でいる。
私が大学にいないのは大学にもヒントが無いと思ったからである。
ひたすら未消化の課題をこなす方が大事だった。
それまで時間がかかった。
とりあえず目的は完遂した。
あんまり残された課題もあるけど
そんな事は小さい事である。大筋で大体の事はやり遂げた。
問題は実験値と理論の双方の問題である。
私の問題はもう役目が終わった。
ここまで来れたのは自由を目指していたからだと思う。
他人が束縛すればするほど自由を目指した。
それがその結果に結びついていると思う。
あんまり他人なんてあてにならないと言うのが本音である。
なので他人なんかより自由になるために行動した方がいいと私は思っている。
自分が閉塞感を感じるなら自由になる事である。
それが自分の能力を解き放つ原動力になる。
壁に当たれば当たるほど自由になった方がいい。
それが自由をなめられない原因である。
自由は永遠の愛だと私は言ったがその通りである。
大体ある程度の方針を私達に与えてくれる。
なのに他人は束縛して来るのは大方間違っている。
権力もそうである。
それに対抗できるのは自由であり、ある意味真実に最も近い。
それがずうっと継続出来るから永遠の愛なのである。
いずれにせよこう言う活動を続けれる人が必要である。
なんか勉強より永遠の愛の方が大事である。
いつまで私を他人が束縛しようとするのかわからんけど
自由にならない活動は永遠の0点である。
そんな迷惑で人間の尊厳なんてどうでもいい。
もう少し結果に結びつく他の方法があるなら別だけど
私にはそんな簡単に思いつく気がしない。
なのでもう少し時代を経過しないと冷静に判断出来ない気もする。
なので現時点でほとんどジエンドである。
<<追記20180430end

<<追記20180504
自由と神様と愛は
密接に関係している。
自由に向かうだけで愛らしくもなるし
神様は勇気を与える。
自由と神様と愛を忘れた時
人生の羅針盤を失う。
生きている意味がわからなくなる。
仕事すればするほど
それを見失う傾向ありそうである。
自分が何をやっているのか
わからなくなる。
自由を失い神様を失い愛を失う。
ただあるのは
自由のために神様のために愛のために
生きているというだけである。
ほとんど自由を失っているからである。
自由に向かい神に導かれ
愛を持って愛らしくなる。
それが人間の活動である。
そんな基本を人間は忘れがちである。
それから遠くなっているから
他人は問題ばかり起こしている。
子供の方がよっぽど
その点は十分過ぎるほど
わかっている。
自由に程遠く自由を拒否してる。
従って神様も愛もわからない。
それが都会の現象である。
そんなこともわからない。
伊豆の三島じゃあ考えられない。
一体こんな状況で
民主主義は成立するのかわからない。
ただひたすらに損得勘定である。
必要なのは自由である。
愛が足らない原因である。
神様が決めたように進むだけである。
そんないさぎよさが
人間の大事な部分なのに
いかれた女と男が問題起こしている。
私には全く無関係である。
あきれ果てるとは
こういうことである。
だから私は関東と関西は嫌いである。
必要なのは自由と神様と愛である。
<<追記20180504end




Copyright wakkii,2012.04.30